畜生の第八識の心行は無記であり、畜生の意根の心行も無記であるが、畜生の六識の心行は無記ではない。六識が造作する業行は全て業種に収蔵され、果報を有する。例えば畜生が仏法を聞けば、死後に天に昇り福を享けることがあり、経典にこの記載がある。人間に近接する畜生、人間の身辺に生きる畜生は、人間の法を薫習し、人の世の事情を明らかにし、人に近しいため、死後容易に人間道に託生する。猫犬の類がこれに当たる。畜生が無意識に三宝を供養すれば、将来大いなる善報を得て証果が速やかであると、経典に記されている。
畜生が人間と異なる点は、畜生の意識は比較的愚痴であり、深細な思惟分析ができず、意根に対する献策指導の作用が小さいことにある。大多数の場合、意根の習気作用の顕現であるため、愚直で朴訥、策略少なく、虚偽性がなく、如才ないところがない。これが人間が特定の畜生を好み、また特定の畜生を恐れる所以である。
畜生は皆前世の果報を受ける段階にあり、意識の作用力が小さいため、新たに業を造る能力も小さい。果報が尽きれば再び人道に生を受ける。人身こそ最も業を造ることが甚だしい存在である。人の策略心が大きく、意識が強大で、新たな業を造り得るからである。欲界天の天人も意識は強大であるが、彼らは善報を受ける段階に属し、悪業を造作する必要がなく、善業の造作も比較的少なく、主に天界の楽しみを享受している。
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