「応に住する所無くして其の心を生ず」には二つの意味がある。第一の根本的な意味は、我々の真如自性第八識の本性が、一切の法に住することなく絶えず外に向かって心を生じることであり、この「心を生じる」とは、万物を出生し万物を変化させる能力を指す。これが真如本性の体性である。第二の意味は、我々の妄心(七識心)も第八識に倣って修学し、それと同様に一切の法に住することなく一切の法において活動できるようになることであり、五陰身が活動する際、世俗法と仏法において修学するときも、やはり第八識のように一切の法に住してはならない。
我々の妄心である五陰が第八識の本性のように住する所なくして其の心を生じるようになるためには、大乗の真如本性である第八識の法を修習し、第八識を証得しなければならない。その後次第に第八識の清浄なる体性を観察できるようになり、我々の五陰が徐々に第八識に近づき、それと同様に一切の世俗法と出世間法を行い、有為法を造作する際にも一切の法相に住することなく、一切の法相に執着することなく菩薩道を行えるようになる。
一切の法の法相を真如自性である第八識に帰するには、悟り前に方方面にわたる修習が必要である。証得していない段階では、それは単なる相似的な安住、相似的な第八識への学習に過ぎず、実際に証得していないとき、あなたの心が世俗の有為法を造作するために第八識の本性に依止することは不可能である。悟り前は修習であり、悟った後はじめて如実に、現量で第八識の活動を観察できるようになり、観察しながら同時にそれに倣い近づいていく。心行は徐々に変化し、最終的に心に住する所なくして其の心を生じることができるようになる。「心を生じる」とは、七識心が生起すると同時に三界世間法を活動させることを指す。
本心である第八識もまた心を生じている。いわゆる「心を生じる」とは、三界の有為法を絶えず出生することを指す。三界世間の一切の法は第八識によって生み出されたものであるため、第八識の本性には心行が存在する。五遍行心所法こそが第八識の心行であり、第八識は五遍行心所法を用いて一切の世間法相を広く造作するが、しかし一切の世間の法相には住していない。これが「応に住する所無くして其の心を生ず」の意味である。ここには根本義と世俗義の二つの意味があり、両方とも存在する。第八識の義だけを述べると世俗の人々には理解できないため、二つの義を説明しなければならず、そうして初めて意味が完結するのである。
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