見道は大乗と小乗に分かれており、大乗だけが見道と呼ばれるわけではない。大乗の見道とは如来蔵を実証することで、如来蔵を証得することが即ち大乗修学が依止する道跡を見ることに当たる。如来蔵を証得した後に改めて転依が成就して初めて悟りとするのではなく、如来蔵を見たその瞬間が証悟である。転依について言えば、悟りを得た後は確かに徐々に転依を進める必要があり、転依が成就すればその心性は如来蔵の清浄性に近づき、煩悩を断じ、智慧の面では唯識種智を具えるようになる。これにより如来の家に入り、真の仏子となる。
もし転依の成就を以て明心証悟とするならば、如来蔵を証得することは証悟ではないことになる。証悟でないならば如来蔵を証得したことにはならず、理解として如来蔵を得たに過ぎない。理解として得た如来蔵には功徳の受用がなく、そこで身口意行を如来蔵の清浄性と照らし合わせ、七識の身口意行を規制する必要が生じる。ある程度まで規制が進み、再び煩悩によって悪業を造ることがなくなった時点で初めて証悟とされる。しかしこのような規制は、真に悟りを開いていない限り成功し得ず、従って所謂転依も永遠に成就しない。悟りを得ていない者がどうして転依を成就できようか。悟った後に何故改めて転依を成就し、再び証悟と確立する必要があろうか。これは矛盾した問題ではないだろうか。
悟りを得た後、漸く如来蔵の空性清浄性へ転依を進め、最終的に初禅が発起し煩悩が断たれた時、それが最も初歩的な転依である。第二の転依成就は八地菩薩位において、究竟の転依成就は仏地において実現する。凡夫が悟りを得ていない段階では転依の問題に及ばず、ましてや転依の成就などあり得ない。転依を成就するには最低限煩悩を断じ、心性と智慧が共に如来蔵に近似し、如来蔵に近接する必要がある。如来蔵には微塵の無明も煩悩もなく、煩悩習気も存在しない。六七識は如来蔵に依止して身口意行と智慧を清浄にし、戒定慧を勤修しなければならない。
最初の転依成就には、少なくとも煩悩を断じて三果・四果の菩薩となる必要があり、かろうじて転依成就と呼べる。しかしこの段階ではまだ煩悩習気が残存し、如来蔵との隔たりは依然として大きい。おおよそ二つの無量劫の修行を経て大乗無学に至れば、もはや如来蔵の心性と智慧への転依を要しなくなる。明らかに転依は凡夫未証悟の者には成し得るものではなく、ただ思い巡らすのみである。
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