衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年03月29日    木曜日     第2 回の開示 合計274回の開示

成唯識論述記

論。内識の変現する所、実我法性に至る。

述べて曰く。これ依他我法の仮名を顕す。先ず其の体実に我法に非ざるを顕す。内識の変現する所、似我似法。其の体は依他縁起に有りと雖も、而も彼の妄情の執る所の実我法性に非ず。此の縁起法は、主宰無きが故に、作用無きが故に。

釈:内識とは、内六塵を了別する七識を指す。内六塵は七識の参与によって変現し、三能変識(第八識・第七識・前六識)が共同して内六塵と五蘊を変現する。六識と五蘊は依他起性に属し、種々の縁に依りて第八識より生ず。仮我五蘊・六識を変似し、宇宙器世間を変似す。実にこれらの法は真実有に非ず、実存する我と法に非ず。

五蘊は我に非ず、実に非ず。六識は我に非ず、実に非ず。六塵は実に非ず。一切の法は悉く我に非ず、実に非ず。内識によって顕現する仮我仮法は、現象上あたかも有るが如く、実質は無く、幻化すれば即ち空なり。

五蘊六塵六識は唯だ仮名に過ぎず、種々の縁に依って生成される。縁起法は表相上あたかも有るが如く、実はただ衆生の情識が虚妄に我と実とを計量するに過ぎず、あたかも我が有り、種々の法が有るが如し。実際には無く、幻化真実に非ず、夢中の物の如し。これらの縁起法は因縁所生なるが故に、自主性無く、主宰性無く、また真実の作用無し。

我とは主宰の義なり。五蘊に自主性無く、主宰性無きが故に、五蘊は我に非ず、唯だ名相概念の仮有にして真実に非ず。五蘊に真実の作用無く、表面的な機能作用は、主宰性無く、全て五蘊の為す所に非ず。其の背後に別に主宰者あり、真実の主人なり、真実の我なり。其の我こそ真実の、実在の作用を有し、自主性を具え、一切法の生・住・異・滅を主宰する能あり。

真実の五蘊無く、また真実の五蘊の作用無し。衆生が五蘊に作用有りと覚るは、妄知妄覚、心錯乱の故なり、心迷乱の故なり。実には迷乱倒錯の心も無く、皆空中の花、夢中の境の如し。地に入りて後は、再び五蘊に真実の作用有りと感じず、一切法に真実の作用有りと認めず、全て仮相にして真実の作用無く、唯だ第八識に真実の作用有り。恰も操り人形の如く、真実の作用無し。人形にはどうして作用があるでしょうか?如何なる方法を以てしても人形に作用あること無し。人形に作用有りと認むるは、皆迷乱倒錯の衆生、心開けざるが故なり。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

成唯識論述記

次の記事 次の記事

我が心は優しく

ページのトップへ戻る