衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月29日    木曜日     第3 回の開示 合計275回の開示

我が心は優しく

波旬のような悪戯っ子に対しても、師匠は叱りつけながらも頭を撫で、肩を叩き「おとなしくするんだよ、お前もいずれ仏になる身なのだから、もう悪さはよしなさい」と諭される。衆生全てが仏となる可能性を秘め、また衆生の苦しみを深く慈しむが故に、菩薩は厳しい姿を見せながらも、心の底には千重の優しさをたたえているのである。

慈悲心を修めた菩薩は、衆生の乱れた姿を見ては嘆きながらその愚かしさを憐れみ、かつ虚空のように全てを包み込む。その心は広大無辺であるばかりでなく、極めて柔軟である。今や私の心は絹のように柔らかく、悪戯好きの者たちさえ愛おしく思える。幼い頃から腕白な子らと接してきたため、彼らを嫌う気持ちなど微塵もない。

さらに菩薩たる者は覚るべきである。一切の法は如来蔵より化現したもので、実は一切の法など存在せず、全ては如来蔵の空相・空性に他ならない。如来蔵に安住して清涼を享受する境地こそ、何と自在で安らかなことか。このほど弟子が言った「早く如来蔵を見出し、その中に安住して清涼寂静を味わい、心に一切の是非紛擾の相を留めないようにすべきだ」との言葉は、実に智慧に満ちたものであり、我々も見習うべきである。

『諸法無行経』において「行」とは運行・顕現を意味するが、諸法は実は実体なく、運行することもない。なぜなら一切の法は涅槃の相であり、寂静にして作為なく、生滅せず、繋がれず縛られず、解脱もなく、常に虚空の如く寂静であるからだ。

一切の法は如来蔵の相である。如来蔵を見れば一切の法は見えなくなり、すなわち如来蔵に安住するのである。如来蔵でない法など存在するか。全ては如来蔵の空性に他ならない。故に三界の世俗法相も、善悪の相も、乱れの相も、対立の相もない。菩薩は常に畢竟空を遊行し、心は常に定にあって執着しない。もし執着があれば菩薩ではなく、一切の好悪の相を見れば菩薩ではない。

それゆえ私の心は柔らかく、極めて柔軟で、言葉では言い表せないほどである。

——生如法師の開示
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