原文:論。内識の変ずるところ実我法性に至る。
述べて曰く。此れは依他なる我法の仮たるを顕わす。先ず其の体実に我法に非ざるを顕わす。内識の変ずるところ我に似たり法に似たり。体は依他なりと雖も縁起は有なり。而も彼の妄情の執る所の実我法性には非ず。此の縁起の法は、主宰無きが故に。作用無きが故に。
釈:内識とは、内六塵を了別する七識を指す。内六塵は七識の参与によって変現され、三能変識(第八識、第七識、前六識)が共同して内六塵と五陰を変現する。六識と五陰は依他起性に属し、種々の縁に依って、第八識より生ずる。仮の我たる五陰・六識に似せて変現し、宇宙器世間に似せて変現する。実にこれらの法は真実有ではなく、実在する我や法ではない。
五陰は我にあらず、実にあらず。六識は我にあらず、実にあらず。六塵は実にあらず。一切の法は悉く我にあらず、実にあらず。内識によって顕現された仮我仮法は、現象上は有るように見えるが、実質は無であり、幻化は即ち空なり。
五陰・六塵・六識は単なる仮名に過ぎず、様々な縁によって生成される。縁起の法は表相上は有るように見えるが、実は衆生の情識が虚妄に我として実として計量するのみで、あたかも我が存在し、種々の法が存在するかの如し。実際には存在せず、幻化にして真実ならず、夢中の物の如し。これらの縁起の法は因縁によって生じたものであるが故に、自主性がなく、主宰性がなく、また実在の作用もない。
我とは主宰の義である。五陰に自主性がなく、主宰性がない以上、五陰は我ではなく、単なる名詞概念であり、仮有にして真実ではない。五陰に実在の作用はなく、表面的な機能作用も、主宰性も、全て五陰の為すところではない。その背後には別に主宰者が存在し、これが真実の主人、真実の我である。その我こそが真実の作用を持ち、自主性を持ち、一切の法の生・住・異・滅を主宰し得る。
真実の五陰は存在せず、五陰の真実の作用も存在しない。衆生が五陰に作用があると感じるのは、妄知妄覚によるものであり、心が錯乱しているが故、心が迷惑しているが故である。実は迷惑顛倒の心すら存在せず、悉く空中の花、夢中の境の如し。地に入って後は、五陰に実在の作用があるとは感じず、一切の法に実在の作用があるとは認めず、全ては仮相であり実在の作用はなく、唯だ第八識のみが真実の作用を持つ。恰も操り人形の如く、実在の作用はない。操り人形がどうして作用があろうか。如何なる方法でも操り人形に作用はあり得ない。操り人形に作用があると考える者は、悉く迷惑顛倒の衆生であり、心が開けていないのである。
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