異熟識。すなわち第八識である。名称には多義がある。第一に「変異して熟す」とは、因が変異する時に果が初めて熟することを指す。この理は他の場合にも通じ、種子が果を生じる時は全て変異を伴う。第二に「異時に熟す」とは、因と時を異にして果が熟することをいう。今大乗の教えによれば、これは種体そのものではなく造業の時期を指す。同一世に存在することを認めるからである。第三に「異類に熟す」とは、因と性質を異にする果が因に報いることを指す。
解釈:八地菩薩の第八識を異熟識と呼ぶ。「変異して熟す」とは、現在の行為が因となり、その因が種子として第八識に蓄積され、成熟後に第八識が果を生じ変ずることを指す。「異時に熟す」とは、現在の業が第八識に蓄積され、後々縁が熟した時に第八識が果を生じる。この「時」は一瞬後か明日か、あるいは晩年か来世か、無量劫の後か定まらない。時が不確定であるように、果も不確定である。懺悔と善法の修行によって果報は転換可能である。「異類に熟す」とは、現世で人身をもって業を造り、来世では地獄の身で報いを受けるか、あるいは天人の身、他の世界の衆生の身、菩薩の身、辟支仏の身で受けるか、あるいは仏果として報いることを指す。業には定業と不定業があり、定業は不定業に転じ、不定業は定業に転じ、あるいは消滅しうる。悪業を即座に懺悔すれば不定業に転換し、あるいは消滅する。もし悔いの心を起こさず悪心が増せば、不定業は定業に転じ必ず報いを受ける。一つの罪業を造った後、懺悔しなければ一夜ごとに倍増し、さらに次の夜も倍増し、積もり積もって業は膨大となる。この悪業の種子が絶えず意根を薫習し、意根が将来さらに意識を薫習するため、同じ悪業を繰り返し造り続け、止むことなく生死を重ね、永劫にわたり苦悩が続く。一言で充分に地獄に堕ち、果報を受けた後人間界に戻っても、業を造る習気の故に再び同じ悪業を造り、再び地獄に堕ちて報いを受ける。衆生はこのように全く気付くことなく際限なく悪業を造り続け、無量劫にわたり苦悩が続くにもかかわらず、自らその原因を知らないのである。
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