衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月16日    水曜日     第1 回の開示 合計3447回の開示

現量と非量の重大問題

昨日、ある人が様々なデータ指標に基づき、今日の株価が10%上昇すると分析予測し、結果は確かに10%上昇し、寸分違わず正確でした。この人の昨日の予測は現量でしょうか?この人が今日の株価の動向と技術データ指標に基づき、明日の株価が2%下落すると分析予測し、翌日確認すると実際に2%下落しました。ではこの人の今日の分析予測は現量でしょうか?どちらも現量ではありません。予測は全て非量です。たとえデータが正確無比でも、株価の動向は目撃事実ではないため現量ではありません。データ指標による推論、思考、分析、推測、推理は全て非量です。私が「あなたは明日悪事を働くだろう」と予測しても、現時点であなたは悪事を働いていない。ゆえに悪事は事実ではなく、独頭意識の予測・推測によるもので、現量ではなく非量です。現量とは、その場で彼が悪事を働いているのを見ることであり、実際に彼が善行をしている場合、あなたの見たものも非量となります。

両手で拳を作り、一方に百円玉を握り、もう一方は空の拳とします。右拳を差し出し「この拳に硬貨はあるか」と尋ねると、相手は考えて「硬貨があります」と答えました。正解を当てたとしても、これも非量であり現量ではありません。この答えは現量観察によるものではなく、推測によるものだからです。もし現量観察によるというなら、彼は拳の中の硬貨を見ていないはずです。神通力があれば天眼で見た現量となりますが、彼に神通力がなければ、肉眼で見えないものは直見ではなく、推測・憶測・推論による非量です。事実を見ていないものは全て非量であり、現量ではありません。

いったい何が現量なのか、皆さんは今本当に理解できたでしょうか?現量とは現前に存在する法を、目撃し、真実を誤りなく見ることです。これが現量観察であり、現量の智慧による認知です。現実に存在しない法、現前に見えない法を、独頭意識で思考推測するのは純粋な非量です。株価動向は現前に存在せず、翌日にならなければ見えません。現在の見解は目撃事実に基づかず、心中の推測予想は当然ながら想像の非量です。予測が正確でも目撃事実ではなく、現前の株価チャート観察によるものではないため、100%非量です。

また比量でもありません。法と法の平等比較がないからです。比量とは二つ以上の法を相互比較して得られる結論であり、複数の法が並存関係にあり、相互比較が可能で、比較なしでは結論も決定もできません。目撃事実と想像とでは、智慧認知・心境・覚受が同じでしょうか?親族が徐々に死んでいく現場を見ているのと、親族の将来の死を想像するのとで、心境や覚受が同じでしょうか?親族の死を想像する場合、たとえ誰もが必ず死ぬとしても、現時点で親族は生きています。目撃した死と想像の死とで、心境や覚受が同じでしょうか?

多くの人が学んだ如来蔵理論に基づき、如来蔵の種々の機能作用と体性から推測し「如来蔵は某所某界某根某法において某の機能を発揮する」と結論付け、自らが如来蔵を親証し、悟りを開き聖人になったと考えます。この誤解は極めて大きく、結果も甚大です。貧賤の者が帝王になったと想像し、この想像を真実と思い込み「私は帝王だ」と言えば、真の帝王が知って激怒し兵を遣わして捕らえ斬首し晒し者にするようなものです。如来蔵が某作用を発揮すると想像し「悟った聖人だ」と言う行為の結果は、斬首されるより遥かに深刻です。修行は慎重を期さねばなりません。

大妄語の問題はどこにあるのでしょうか?現量と非量の区別が分からず、何が現量観察かを理解せず、推測分析思考の本質が非量であって現量観察でないことを知らない点にあります。現量と非量を区別できないことは極めて重大な問題です。多くの人が自らの結論が推測によるもので、直見の現量見でないことを認識していません。そのため推論で結論を出すと、現量証得したと錯覚しますが、実際は非量の想像と推論に過ぎません。特に禅定のない者は全て意識の推論作用です。浅い禅定があっても意識の推論作用があり、深い禅定者でも思考時に深い禅定中でなく意識を用いるなら、やはり意識の推論作用です。ゆえに禅定があれば必ず現量証得するとは限りません。

——生如法師の開示
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