衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2021年06月16日    水曜日     第2開示 合計3448開示

懺悔と消業

問:私は毎日朝夕に懺悔し発願しています。身口意は以前よりずっと清浄になりましたが、ごく稀に無意識に貪業や瞋業を犯してしまうことがあります。このような懺悔は意根に深く至っておらず、如法ではなく、まだ業を消していないのでしょうか? 

答:懺悔した後も、業障が一度にすべて消え清まるとは限りません。必ずまだ未了の余業があり、煩悩障が残っています。なぜなら、誰もが徹底的かつ適切に懺悔できるわけではないからです。また、懺悔によって消えるのは性罪障の煩悩業の一部に過ぎず、すべての性罪障を消し去ることはほぼ不可能です。さらに消すことのできない罪障も残っており、これは避けられず罪報を受けることになります。

仏在世の時、ある居士が四果の阿羅漢を誹謗しました。その阿羅漢はすぐに堂に上がり鐘を鳴らして大衆を集め、その居士に言いました。「私は阿羅漢果を証得した。あなたは早急に大衆の面前で私に誹謗の業を懺悔しなさい。さもなければ地獄の果報を受けることになる」。その居士はすぐに大衆の面前で阿羅漢に懺悔しました。阿羅漢は言いました。「私はあなたを許します。どうか罪業が消滅しますように」。しかし、この居士は命終後、やはり地獄に堕ちて報いを受けました。この話は、懺悔が役に立たず業を消せないという意味ではなく、懺悔では心性上の罪業しか消せず、事相上の罪業はすでに造作されて事実となっており、それは消すことができず、報いを受けることでしか消滅しないということを示しています。あの居士は懺悔の後、性罪障はなくなりましたが、罪障は依然として残っていたため、地獄で報いを受けたのです。もし懺悔しなければ、性業に罪業が加わり地獄で受ける苦しみはさらに大きく、耐え難いものとなったでしょう。ですから私たちは皆、できる限り身口意の行いに細心の注意を払い、特に三宝に対してはさらに慎重に、いかなる誹謗業も造らないようにしなければなりません。 

もし煩悩業障がすべて消え清まれば、それは証果し成仏したことになりますが、実際にはそれほど容易にすべて懺悔して清まるものではありません。煩悩業障は少しずつ軽減していくもので、軽減した後も、たまに現れることがありますが、これはすべて正常な現象です。懺悔が意根に深く至った後も、どの程度深く至ったか、どの程度変化したかを見る必要があり、それは明らかに程度が不十分です。もし程度が十分であれば、煩悩はすべて断尽されているはずです。程度が不十分であれば、当然まだ煩悩業障が残っているわけで、これらはすべて正常な現象です。あなたが以前より進歩し、毎日進歩しているならば、それは良い現象なのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

現量と非量の重大問題

次へ 次へ

いかにして速やかに禅定を修めることができるか

ページトップへ戻る