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日常法話

2018年04月03日    火曜日     第4開示 合計298開示

相分、見分と意根の恒審思量

問:相分とは見分の結果なのでしょうか?眼識の相分は見られる顕色などですが、では意根の相分とは何でしょうか?意根の恒審思量の心行法相とはどのようなものでしょうか?意根の心行法相と恒審思量の結果はどのように結びつくのでしょうか?行相と相分の関係は何でしょうか?

答:相分とは、見分が見る対象の相であって、見分の結果ではありません。見分が現れないときにも、相分は存在していますが、ただ識心に顕現していないだけです。

見分の結果は自証分であり、すでに相分を見たことを自証分といいます。

意根の相分は非常に広範です。第八識が見ることのできる相は、意根はすべて見ることができ、第八識の中の縁の熟していない種子と七大種子を除いてすべてです。意根は遍計所執識と呼ばれますが、一切法を見ることができるからこそ、普遍的に計着し執着することができ、一切を黙容することができるのです。一切法を見ることができるからこそ、一切法を黙容することができるのです。六識が見ることのできる六塵の相分、六識が見ることのできない六塵の相分、さらに六塵に属さない相分、過去未来の相分も含めて、第八識が見て顕現できるものであれば、意根はすべて見ることができます。

意根が恒審思量するとき、最も主要なのは思心所が絶えず現前して運行することであり、思量する法に対して、絶えず作意・触・受・想を行い、念心所も絶えず働き、欲心所の導く作用があり、定と慧の心所が現れることもあれば、善悪の心所法も現前する可能性もあります。意根の心行の法相とは、すなわち心所法が運行する行相のことです。

意根のこれらの心所が一緒に和合して働くことによって、はじめて絶えず恒審思量することができ、思量して一つの結果を導き出すことができるのです。

識心が運行する行相は、意識によって観察され知られることができるため、それが意識の相分なのです。運行の行相こそが相分であり、識心によって観察されるものが相分です。八つの識の識心そのものも意識によって観察されることができるため、八つの識もまた意識の相分なのです。

八つの識がすべて自分自身と自分の心所法を反観することができるならば、八つの識と心所法もまた、それ自体の相分ということになります。

——生如法師の開示
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