衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年06月12日    土曜日     第1 回の開示 合計3439回の開示

意識の推論は観行及び参究に非ず

定観呼吸の修習においては、意識はただ呼吸の動きを観じ、息の出入りを知り、息の長短を知るのみで、「知」の本源が何であるかという念いを加える必要はない。知の果てが何であろうと、それは後のことであり、今結果が出ていない以上、推測すべきではない。意識の推論は意識の独りよがりに過ぎず、独りよがりは永遠に問題を解決できない。意識と意根が互いに納得して初めて物事は円満に解決され、最終的な結果がありのままに現れる。それこそが「証」と呼ばれるものである。

意識の推論が悪いわけではないが、それは単なる道標に過ぎない。実際に進むかどうか、どのように進むかは、意根の選択に依存する。意根が選択しなければ、意識がどれほど道を示しても無意味である。時には意識が推論しなくても問題は円滑に解決され、推論がかえって邪魔になることもある。方向が正しければ、推論なしでより速く安定して進めることもある。意識を使いすぎるのは良いことではなく、意識を使えば使うほど意根は無能になる。意根が無能であるとは、その人全体が無能であることであり、操作指揮システムに問題があれば、どうして操作できようか。

修行は愚か者が行うものであり、賢すぎれば真摯に物事に取り組まなくなる。意識が大まかな方向を示したら、目を閉じて心を休め、ひそかに監督すればよい。あまり干渉する必要はない。意根が自らの力で一旦歩み出し目的地に到達すれば、その能力は実に強大である。意識に引っ張られて進むと意根は無能になり、何事も成し遂げられない。

意識の推論は、本質的に妄想である。妄想とは見えないことを意味し、見えればもはや妄想とは呼ばれない。ある者は意識で第八識を妄想し、ある場所である作用を及ぼすと定義し、それを「明心開悟」と呼ぶ。煩悩を断つ必要もなく、禅定を修める必要もなく、せいぜい数分から十数分ほど心が落ち着けばよいという。このような行為の結果がどうなるかは、皆が理解できるはずである。もしこれが開悟だとすれば、夢の中で見たものも有効であり、夢で金銀の山を見たなら、目覚めたら大金持ちになっているべきである。夢は畢竟現実ではなく事実ではない。独頭意識の推測などという様々な作為を、どうして真に受けることができようか。大いなる智慧、真実の智慧を得ようとするなら、しっかりと定観行を修め参究すべきである。意識が自由気ままに結果を導き出させるのを許してはならない。意根がその結果を認めなければ、意識の行うすべては無駄に終わる。

——生如法師の開示
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