如来蔵はどのように自在であるのか?如来蔵には六根がなく、六塵に対応しないため、いかなる心の働きも生じず、貪瞋痴の煩悩もなく、業行を造ることもない。よって業行に従って生死流転することはない。目がなく色を見ないため、色に迷わされず、色に対して顛倒せず、色に縛られない。故に自在である。どんな良い物や宝物にも貪らず、良い色も悪い色も見ず、色に動かされない。色に対して自在である。称賛されようが罵られようが、耳がなく聞こえないため、貪瞋痴の煩悩が起きず、音声に対して自在である。色法に対しても、声法に対しても、色声香味触法の六塵すべてに対して自在である。六根(眼耳鼻舌身意)がなく六塵に対応しないため、心が動かず、六塵に対し如如不動である。
では私たち衆生の七識心は六塵に対して自在か?自在ではない。目で色を見れば色に縛られ、耳で声を聞けば音声に縛られる。鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を覚え、身で触覚を感じることも全て縛られる。七識心はこれらの色声香味触法から離れることができず、色を見れば色に執着し、声を聞けば声に執着し、香りを嗅げば香りに執着し、味を覚えれば味に執着し、触覚を感じれば触覚に執着し、法を知れば法に執着する。如来蔵はこれらの法を見聞覚知せず、染まらず、縛られず、顛倒しない。故に自在である。
この段落は如来蔵の体性を説くもので、悟った後はその体性に依って如来蔵に転依できる。悟る前に如来蔵のこれらの体性を知れば、身口意で造作するその瞬間、如来蔵がどのような体性か、どれほど清浄かを思い起こすことで、自らをしてそれに習わしめ、六塵の境界に対しても貪瞋痴の煩悩を現起させず、清浄を保つことができる。これは真実の転依ではないが、大きな作用があり、常にこのように熏習すれば、心を転変させることができる。
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