第八識の無我性とは、第一に第八識には生滅を繰り返す種子が含蔵されており、種子は変異して固定されないため、第八識は真実不変のものではなく、常恒ではない、つまり完全に真実の我とは言えないことを指す。生滅変化しないものが真実の我である。第二に、第八識は自らが真実の法であることを認識せず、主宰性を持たない点を指す。第七識は我ありとして一切の法を我と見做す能動性を持つが、第八識はこれと正反対である。第八識は真我であるが、この真我は無我性を具える。五陰は仮我であり表面上我性を有するが、如来蔵は真我である。これは我々が付与した概念であり、第八識自体はこれを自覚せず、この事実を認識していない。
五陰十八界が輾転和合して生じる一切の法も、第八識の執持作用によって顕現する。第八識がなければこれら一切の法は存在せず、故に一切の法は無我にして虚妄であり、五陰自体に実体はない。この理を少分証得すれば道種智を得る。初地に入れば百法における無我を証得し、鏡像観の成就を得る。二地に入れば千法の無我を証得し、光影観の成就を得る。三地に入れば万法・無量法における無我を証得し、智慧は次第に深遠となる。諸法無我の内実は無量無辺にして、諸仏世尊のみが完全に証得し、究竟の円満無上の智者となる。
大涅槃経において仏は、仏地の無垢識を常楽我淨と説く。常とは究竟して再び変異せず、含蔵する種子に生滅変異の現象なきを指す。我とは、無垢識が二十一の心所法を具え、真実完全なる我性を具足することを指す。諸仏が徹底的に無我であるとは、仏の七識心が究竟的完全無我に達したことを意味する。これ以前は未だ究竟の無我ではなく、一部あるいは微量の我が断尽されず、故に成仏できなかった。断尽すれば成仏する。識心は自証分を有し、自らを反観する能力を持つ、これが我性である。仏地の無垢識は自らの存在を証明し、自らを反観できる故に我性を具える。
我の存在を否定し一切法を無我と見做すのは小乗の修行法である。外道の断滅空も一切法を空と説き、真実なく我なく、一切を無に帰する。彼らは真実不滅の第八識真我の存在を認めない故に外道と呼ばれる。小乗声聞は真我たる第八識の存在を認めるが証得できず、外道はこれを全く認めない故に外道と呼ばれる。
9
+1