法は世間・出世間の存在する事物や理念であり、七識心によって認識され、感知され、覚受され、分別される対象を含み、一つの理体、道理、意涵を含みます。法には実法があり、虚法があります;真法があり、仮法があります;縁生法があり、非縁生法があります;有為法があり、無為法があります;四大で構成される物質の色法があり、概念理念の非四大で構成される心法があります;宇宙虚空十方無量無辺の諸仏世界のような大法があり、肉眼では見えない微細な法があります;愚痴の三悪道の衆生も感知できる法があり、仏の無辺智・無等等智だけが了知できる法もあります。
これらの法は、諸仏の無垢識真如大円鏡智を除いては、真実で永遠の我性を持つ法であり、それ以外はすべて無我性です。それゆえ、衆生にとっては、諸法はすべて無我です。我とは、真実であり、非縁生であり、不生不滅であり、不変易であり、不苦であり、清浄無垢であり、不断滅である、すなわち常・楽・我・浄の体性を持つものであり、これらの体性を持たない法はすべて無我法です。
衆生の第八識は真我真心であり、不生不滅ですが、しかし、それにはまだ七識の染汚種子が生滅変易しているため、完全に我とは言えません。それは無我性であり、なぜなら、自我認知の能力がなく、自身の存在を知らず、我見がないからです。意根や意識心のように、常に自我の存在を感知し、いつも我・我・我と自我に執着し、問題を考える時はまず自分を考え、私はどうしたい、私はどうであるかと、無意識のうちに自分を売り込み、他人にも自己を了知させ、重視させ、誇示させるのとは異なります。
しかし、第八識には私心や我心がなく、自身の存在を知らないため、決して自分を考えたり打算したりせず、ましてや自分を売り込み、見せびらかして衆生に理解させ重視させることもなく、衆生と何の利益、是非、短長を争ったこともありません。このような心は無我性の心です。それは何事にも主とならず、完全に縁に随い、心の中に一つの法も執着しません。七識心はこれとは反対に、貪・瞋・痴・慢・疑・邪見の煩悩を具足し、普遍的に一切の法を計度し執着し、時々刻刻、至る所、何事にも主となり、自我性が強いです。
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