衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年04月04日    水曜日     第4開示 合計302開示

カメラの譬喩

問:カメラの撮影者は第八識であり、五根はレンズであり、それがさらに変化して内六塵の影となり、内六塵はこのように幻化されて現れるのでしょうか?

答:撮影する者、すなわち第八識であり、六識は像を見る者であり、写真や映像を見ることしかできず、何を見て何を見ないかは意根の指揮を受けます。カメラがどの景物に向けて撮影するかは、意根が決定します。第八識は五根あるいは六根を通じて外六塵を摂取し、像が形成された後、六識がそれらの像を分別します。六識は像を見る者です。第七識は像を見る者を指揮し、撮影する者をも指揮します。第七識がどこを指し示すかによって、第八識はその場所の六塵境界を摂取せざるを得ず、六識はその場所の六塵像を分別せざるを得ません。

カメラがどの景物に向けて撮影するかは、時として意根が決定します。意根が景物を選んだ後、第八識は撮影します。第八識が何らかの境界を映し出す際、時には意根も主導権を持てず、第八識が違縁や冤親債主(怨みや因縁のある債権者)を出現させることがあります。これは意根の選択ではなく、意根が第八識にこの景物を撮影させることはありません。その後、第六識は景物の上に自らの考えや概念を付加し、これはポストプロダクション、すなわち色調補正や肌を滑らかにする作業に相当します。このように後処理された景物は種子として蔵(阿頼耶識)に収蔵されます。

したがって、衆生の五蘊活動の背後には、主宰する存在があると言えます。たとえロボットであっても、人為的に背後で操作されており、たとえコンピューターであっても、人為的に操作され、人がプログラムを設計し、その後電力を供給します。電力は非常に重要であり、五根も電力がなければ動作しません。電源とスイッチを見つけられさえすれば、その主電源バルブと総バルブが一体どこにあるのかを見出せば、法界の実相を悟ることになります。バルブを開ければ、万法はことごとく顕現するでしょう。

——生如法師の開示
前へ前へ

私たちは今この瞬間に生きることができるでしょうか

次へ 次へ

諸法無我(一)

ページトップへ戻る