衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年04月05日    木曜日     第1 回の開示 合計303回の開示

諸法無我(一)

法とは世間・出世間における存在事物と理念のことであり、七識心によって認知・感知・覚受・分別される対象を指す。一つの理体・道理・意涵を含む。法には実法と虚法、真法と仮法、縁生法と非縁生法、有為法と無為法、四大で構成される物質的色法、概念理念的な非四大構成の心法、宇宙虚空十方に遍満する諸仏世界のような大いなる法から肉眼に見えない微細な法まで存在する。愚痴に満ちた三悪道の衆生でも感知できる法もあれば、仏の無辺智・無等等智のみが了知し得る法もある。

これらの法の中で、諸仏の無垢識真如大円鏡智のみが真実永恒の我性を具えた法であり、その他一切は無我性である。したがって衆生にとって、全ての法は無我である。我とは真実なるもの、非縁生的なもの、不生不滅・不変易・不苦・清浄無垢・不断滅のものであり、すなわち常楽我浄の体性を指す。これらの体性を具えていない法は全て無我法である。

衆生の第八識は真我真心であり不生不滅であるが、なお七識の染汚種子が生滅変易しているため、完全な我とは言えない。第八識も無我性を有する。なぜなら自我を認知する能力がなく、自らの存在を知らず、我見を持たないからである。意根や意識心のように常に自我の存在を感知し、「私が」「私の」と執着し、問題を考える際まず自己を優先し、無意識に自己を顕示して他者に認知・重視・称賛させようとする性質とは異なる。

第八識には私心がなく、自らの存在を知らない。それゆえ自らを計らうことも、衆生に理解・重視されようと売り込むことも、利益・是非・優劣を争うこともない。これが無我性の心である。全てにわたって主宰せず、完全に縁に随い、一法にも執着しない。これに対し七識心は貪瞋痴慢疑邪見の煩悩を具え、普遍的に一切の法を計度執着し、時処所を問わず常に主宰的立場を取り、強烈な自我性を発揮する。

——生如法師の開示
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