問:普段どのようにして無所住を実践すればよいのでしょうか。六識が六塵に対しても分別しないことですか?
答:これは純粋に修定と煩悩を降伏する方法です。智慧と相応するためには、六根が六塵に触れる際に、六塵の境界の虚妄不実の性質を観行し、六塵の境界が如来蔵によって顕現された影であり、如来蔵の鏡の中の映像に属し、如来蔵の所有であり、如来蔵の性質であることを了知すべきです。実有の境界ではありません。このような心念を起こすことが正念であり、実相の智慧と相応し、境界の束縛から離れ、心解脱を得ることができます。
無所住は結果であり、修めが究極に至ると、七識心は如来蔵のように清浄となり、有学を修了した大乗菩薩となります。多くの人々は仏法を学ぶほどに却って有所住となり、執着と煩悩を減らさず、世俗を減らさないばかりか、かえって世俗法の係縛を増やし、煩悩と執着を増大させています。これが菩提心を忘失して学法した結果であり、学法に世俗的な求めがあることによる結果です。
問:これはおそらく「応無所住而生其心」についての最も了義的な開示でしょう。六塵に無所住であり、六塵に住せず、六塵を了別することを妨げず、了別した後も痕跡を留めません。なぜなら、すべての六塵は第八識の鏡像であり、智慧ある者は鏡像に住することができないと知っているからです。仮に住したとしても無住なのです。もし明心した者であれば、如来蔵の住することなき識性に転依できます。問題は、「応無所住而生其心」が悟前を指すのか悟後を指すのかということです。師匠、ご開示ください。
答:もともと無所住であるその心を見出すことが、即ち明心証悟です。証悟後は、絶えず五陰身心の運作において、第八識が五陰身心を出生する際の無所住性を観察し、第八識が六塵を出生し執持する際の無所住性を観察するにつれ、七識心は初めてそのような心こそが清浄であり仏の心であると感じ、そこで七識はこれを対照とし、徐々に第八識の薫染を受け、世間の活動においても次第に六塵の境界に無所住となり、心はますます清浄となります。これが悟後の清浄無所住の第八識への転依であり、真の証悟後の転依です。解悟時に改めて転依するのではなく、転依が成就して初めて証悟者となるのであり、解悟後に転依して初めて証悟できるという説は存在せず、それは大きな誤解です。
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