衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月06日    金曜日     第2開示 合計309開示

縁起法と非縁起法

心は本来より自ずと存在するものであり、他縁によるものではない。これは唯一、如何なる条件もなく存在する法であり、因縁を必要としない不生の法である。縁の存在如何に関わらず、それは永遠に生ずることなく滅することもない。故にこれこそが実相の心である。これ以外の一切は因縁によって生じた法であり、条件が具足すれば生じ、縁が生じれば縁が滅するという如く幻の如く定まりない。縁によって生じ縁によって滅する法である以上、それは自性なき法であり、その存在の有無は自らが決定するものではなく、自主もできない。

しかしこの実相の心は自性を有し、それ自体が真実の自体性を具えている。またこれは自在であり、他法によって生じるものではない。無条件・無因縁の存在であり、不生不滅などの体性を具え、何ものもこれを制限できず、何ものもこれを制御できない。本然的に存在しているのである。故に縁起の法には自性がなく、非縁起の法には自性がある。縁起の法とは「此れ有るが故に彼れ有り」というものであり、これらの生には一切自性がない。故にいずれも中道ではない。しかしながら、生み出されたものではなく、本来より存在するものには自性があり、これこそが中道の法である。

また世間の一切の諸法は実相の心より生じ出されたものであり、後天的に生まれたものである。ならば必ず先に実相の心が存在し、その後様々な法や現象が生じるのである。心は様々な現象に依存して存在するものではないが、心を求めようとするならば、現象の上で求めねばならない。現象を離れ、五蘊を離れ、十八界を離れては、心を見いだすことはできない。なぜならこれらの現象の存在と運行は、正しく心もまた存在し運行していることを示しているからである。心が離れたならば、現象は直ちに滅し、五蘊は即座に死体と化す。故に禅を参究(さんぎゅう)するには、六塵の様々な現象の上で参究し、五蘊の活動の中において参究し、六根が六境に触れる時に参究し、これらの法の中において運行している心を求めねばならない。智慧が満足し、定力が具足し、時節因縁が具足する時節が来れば、この実相の心を証得することができるのである。

——生如法師の開示
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応無所住而生其心の真意

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