心は本来より自ずから存在し、他の縁によるものではない。これこそ唯一無二の無条件に存在する法であり、因縁を必要としない不生の法である。縁の有無にかかわらず永遠に生滅せず、故にこれが実相心である。これ以外の全ては因縁所生の法であり、条件が具足すれば生じ、縁生縁滅して幻の如く定まらない。縁生縁滅の法である以上、自性なき法であり、その存在は自ら決められず、自主性もない。
しかしこの実相心は自性を有し、真実の自体性を具えている。また自在なる存在であり、他法によって生じるものではなく、無条件・無因縁に存在する。不生不滅などの体性を具え、何ものもこれを制限せず、統御できず、本然的に存在する。故に縁起法は自性がなく、非縁起法にこそ自性がある。縁起法とは此れ生ずるが故に彼れ生ずるもので、これらの生には自性がないため、いずれも中道ではない。生じ出されたものでなく本来より存在するものにこそ自性があり、これが中道法である。
世間の一切の諸法は実相心より生じた後天的な存在であり、必ず先に実相心が存在し、その後様々な法と現象が現れる。心は諸現象に依存せず存在するが、心を求めんとするなら現象の上に求めねばならない。現象を離れ、五陰を離れ、十八界を離れては心を見出せない。これらの現象の存在と運行こそが、心の存在と運行を証明するものであり、心が離れれば現象は直ちに滅し、五陰は即座に屍と化す。故に参禅は六塵の様々な現象の上で行い、五陰の活動の中に求め、六根が六塵に触れる時に参究すべきである。これらの法の中に運行する心を求め、智慧が満足し、定力が具足し、時節因縁が熟した時、この実相心を証得することができるのである。
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