戒と定の伴わない慧は、すべて理解の域に留まる慧である。理解の慧とは、あたかも凡夫が学習や知識、思考による理解を通じて、十地菩薩や等覚菩薩、そして成仏の法について語ることができるようなものである。彼は実際にその道のりを一歩も歩んだことがないにもかかわらず、各段階の大まかな歩き方を教えることはできても、詳細に語ることは絶対に不可能である。でなければ、それはでたらめに過ぎない。では、彼の語る成仏の道に従って歩もうとする者が、果たして速やかに進めるのか、あるいは道を全うできるのかさえ、疑問に思われる。
一方、実際にその道を歩み通した者は、指し示すだけで、他人はその指し示す方向に従って進めば、速やかに目的地に到達できる。回り道することも、遠回りする必要もなく、曲折もなく、一直線にたどり着くのである。
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