衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月13日    金曜日     第2開示 合計345開示

首楞厳経第六巻

仏は説かれた:阿難よ、汝は常に我が毘奈耶の中で修行の三決定義を説くのを聞いている。すなわち心を摂することが戒となり、戒によって定が生じ、定によって慧が発する。これを三無漏学と名づけるのである。

毘奈耶とは経律論の三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律である。また自心を調伏し、身口意を調和させる意味でもあり、身口意の作業を調和させることである。調伏の結果、煩悩を降伏させ断除し、心に漏れなく、身口意がすべて漏れなく煩悩なく、煩悩の習気なく、無明なく、ついに成仏を達成するのである。

なぜ心を摂することが戒となるのか?どの心を摂すれば戒を成就できるのか?心を収摂しない時、身口意は妄動し乱れ動く。身は、すべきでないことをあえて行い、行くべきでない所へあえて赴き、動くべきでない時にあえて動く。それゆえに深刻な場合には殺生・盗み・淫行の業を造作し、禅定を成就できなくなる。軽微な身体の乱行や妄動があっても禅定は得られない。なぜなら身体が定まらなければ、禅定は不可能だからである。

心を収摂できない時、口は妄語を乱発し、言うべきでないことまで口にし、言ってはならないことまで語る。深刻な場合には妄語・綺語・両舌を犯し、是非を言い触らし、五戒十善に違反する。こうして心が清浄でなければ、禅定は不可能である。たとえ五戒十善に違反しなくても、口が乱れ多く語れば、心は必ず乱れ多く思い、心行が多くなり、心が寂止せず、禅定は不可能である。

心を収摂しない時、意業は必ず清浄でなくなる。思うべきでないことをあえて思い、考えるべきでないことをあえて考え、覚えるべきでないことをあえて覚え、観るべきでないことをあえて観る。こうなれば貪・瞋・痴の煩悩が必ず現前し、心の水が濁ってしまい、どうして定があろうか?

思うべきでない人をあえて思い、慮るべきでないことをあえて慮り、掛けるべきでない情をあえて掛けるなら、心はどうして寂止できようか?誰を思うべきでないのか?ある者は情が多く、内心に常に他人の影を宿し、払っても払いきれず、呼べばすぐに現れ、消そうとしても消せない。こうしてどうして禅定が得られようか?座禅する時、これらの影は必ず自心を遮障し、観行思惟を妨げ、寂静を遮止する。どうして定があろうか?もしこれらの影を仏菩薩の影に換えることができれば、仏菩薩の加護により心は清浄になり、すぐに禅定が得られる。

ある者は心を摂せず、自分に関係のないこと、人のためにならないことを念々と心に留め、時々刻々忘れず、事あるごとに気にかける。心が満ち溢れて隙間なく、心の水が激しく沸き立ち、騒がしく動揺すれば、どうして定があろうか?心を収摂せず、常に財・色・名・食・睡を気にかけ、六塵の縁影が重なり合い、心が空でなく、物に覆われているなら、どうして禅定が得られようか?

多くの者が禅定がうまく修められないと嘆くなら、自らを点検すべきである。いったい何が原因で禅定が修められないのか?心にいったい何が遮障となっているのか?これらのものを掘り起こし、解決すれば、心が空になり、禅定は自然に容易に成就する。禅定に影響するものは、貪・瞋・痴の煩悩であり、心が世俗法に執着し、放捨せず、何もかもを真実と見なし、有用な物と見なして、掴み取らずにはいられず、死んでも世俗法を手放さない。こうしてどうして定があろうか?

こう説いた後も、なお多くの者は自らを点検できず、自心にいったい何があるのか分からない。なぜなら心は境界に流され慣れてしまい、境界と貼り付き過ぎて離れられず、心は境界の外に飛び出して自心を観察することができないからである。こうしてどうして観察の智慧が得られようか?どうして自心の煩悩や習気を観察できようか?

圏外、境界の外、心の外に飛び出し、自心を観察してこそ、観察の智慧が得られ、観照力が生まれ、以前は発見できなかった事相を発見できるようになり、はじめて自心に対処し、自心を転換する方法が得られ、自心を降伏させる力が得られるのである。

今まずなすべきことは、心を境界から離し、移し、心は心、境は境、人は人、物は物とし、諸法はそれぞれの法位に住して、自心とは一切関係なくすることである。心が境を離れれば、覚照力は強大になり、諸法の実相を悟りやすく、禅定は自然に増長し、智慧は自然に現れる。

以上が戒によって定が生じる原理である。自心を収摂することが戒であり、心が非を起こさないことが戒であり、心が乱れ思い乱れ考え乱れ動き乱れ決断し乱れ造作しないことが戒である。この心は主に第七識の意根を指す。意根の触・作意・受・想・思は、六識の作意・触・受・想・思を引き起こし、六識の身口意行の散動を引き起こす。意根を収摂することは、身口意行の総スイッチを制御することに相当し、将軍や指揮官を降伏させることに相当する。そうすれば配下の六識の兵士は素直に従い、服従して乱れ動かなくなる。どうして禅定がないことを憂えようか?

修学で最も重要な点は、定によって慧が発することである。「発」とは生じ引き起こす意味である。仏陀は我々に、心が禅定の力によって定まれば力が生じ、この力が智慧を発起し生じさせると示された。まるである種の力が芽を土から押し出させるように、押し出されることを生じる、発すると言う。智慧は禅定の力によって心から押し出され、生じ発するのである。禅定がなければ、心に力がなく、智慧を生長させることができない。
仏陀が我々に残された遺産と宝の家財は、戒定慧の三無漏学である。もし我々が戒を持ち定を修めることができないために、前の二つの家産を捨て去り、これらは役に立たないと言い、一つの宝だけで十分だと言うなら、我々は考えてみるべきである。我々は道楽者ではないのか?仏陀の家の宝を損ない、顧みずに捨て去る我々は、まだ仏陀の弟子と言えるのか?仏陀の家産を守らない我々は、まだ仏陀の孝子賢孫と言えるのか?前の二つの宝がなければ、最後の一つの宝が得られようか?最後の一つがたとえあったとしても、それはいったいどんな代物か、分かっているのか?

戒について展開して語れば、語り尽くせない。定について展開して語れば、やはり語り尽くせない。慧について展開して語れば、さらに語り尽くせない。結局のところ、戒定慧は浅はかな六識心の戒定慧から、根源的な第七識意根の戒定慧に至って、初めて真の戒定慧となる。真の戒定慧は心の戒・心の定・心の慧であり、表面的な六識の身行や口行だけでなく、意識の心行だけでなく、第七識意根の心行の問題である。意根の心が収摂され、非を起こさず、乱れ動かなければ、必ず智慧が生まれる。意根の戒定慧は一切の法を統べ、ついには意根の戒定慧によって究竟の成仏を果たすのである。

——生如法師の開示
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