無余涅槃においては五蘊身が存在せず、第八識は依り所を失い、自らの行相を顕現することができなくなります。運行の行相がなければ、仏のいかなる識も第八識を発見することは叶いません。
第八識を見出すこと、それを観察することは、ただ五蘊身においてのみ可能です。第八識を観察するには、五蘊身上におけるその働きを通じて観察しなければなりません。五蘊身がなければ第八識を観察することはできず、それは風を観察する場合に、必ず樹木や物体において風を観察しなければならないのと同じです。樹木も物体もなければ、虚空の中に風が存在していても、それは表現されることがありません。第八識と風の情況は同じであるべきです。
形も相もないものは、必ず形有り相有る法を通じて、初めて顕現することができるのです。そうでなければ、形も相もないものがどうして発見されましょうか? 例えば、風を発見するには、風が自らの身体に吹き付けて生じる涼しさ・清涼さを感じるか、あるいは衣服が揺れ動いたり、樹木が揺れたり、物体が動いたりして、初めて風を発見できます。もし自らの五蘊身がなければ、どうして風を発見できましょうか? 外界の樹木や草の揺れ動きがなければ、どうして風を発見できましょうか? 風を発見するには、これらの物質色法において、風の運行する行相の動性において風を見出さねばならず、物体の揺れ動く性質において風を見出し、風が身体に吹き付けて感じられる清涼さ・涼しさ・寒さ、あるいは熱さにおいて風を発見するのです。
では、第八識を見出すことも同じ原理であり、必ず五蘊身の働きを通じて、五蘊の活動を通じて感知しなければなりません。五蘊の活動があるということは、第八識が色身に執持し、維持し、運転していることを示しています。もし五蘊身がなければ、第八識は顕現することができません。
仏は十二因縁経においてこう説かれました:「名色の二者は互いに依存し合うものであり、名色は識を縁とし、識は名色を縁とする(名色縁識、識縁名色)」と。名色とは五蘊を指し、識とは阿頼耶識すなわち第八識を指します。五蘊は第八識を縁として初めて運転することができ、第八識がなければ五蘊も存在しません。「識縁名色」とは、阿頼耶識が必ず五蘊身を縁として、初めて自らの存在と運行を顕現できるということであり、五蘊身がなければ第八識は運行することができない、という意味です。
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