一切の法は世俗諦と勝義諦に分かれる。世俗諦は相の上から観察でき、これらの相は虚妄によって現れた幻のような仮の相であり、極めて多くの虚妄的な作用を持つ。表面的な現象としての作用はあるものの、それも実体のない虚妄である。例えば衆生の五陰において、色陰には否定できない虚妄的な作用があるが、作用があるにもかかわらず、やはり生滅の法であって真実の法ではなく、真に受けるべきではなく執着すべきでない。受陰・想陰・行陰・識陰も同様に、否定できない虚妄的な作用を持つが、同様に実体がなく幻化したものである。
これらの幻化した仮の相は、ただ様々な因縁によって集められたものであり、縁起性空であるが、誰が集めたのか。如来蔵が集めたのである。如来蔵は衆生の業種に基づき、四大の種子・六大の種子を用いて五陰世間の一切の法を合成する。表面上はもちろん生滅するものである。しかし本質的に、これらの生滅法は全て如来蔵の中の材料で作られたもので、その本質は全て如来蔵に属し、一つとして如来蔵の外に出るものはない。したがって本質的に見れば、一切の生滅法はすなわち不生不滅の如来蔵であり、如来蔵に依るが故に不生不滅である。生滅法を形成する六大の種子が不生不滅であり、永遠にこれらの生滅法を変造し続けるため、生滅法は最終的には不生不滅となるのである。
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