衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月17日    火曜日     第7開示 合計372開示

楞厳経における世尊による世界の起因の説

衆生の全ての無明は無始のものであり、すべて無始無明と呼ばれ、無始劫以前から存在している。そうであるならば、無始無明は主にどの心体と相応するのか?第七識である意根と相応する。楞厳経において、世尊は説かれた:無始劫以前、混沌が未だ開けていない時には、第八識と意根のみが存在し、三界世間もなく、五陰世間もなく、六識もなかった。その時すでに全ての無明は存在しており、後天的に生じた無明は一つもなかった。したがって、全ての無明は意根の無明であると言える。楞厳経のこの箇所は世界の起因を説明しており、これ以前には世界は存在せず、無明によって意根が外に向かって縁取し、初めて世界が形成された。世界がない時には五陰身と六識は存在し得ず、五陰身は必ず止住する所依処を必要とする。世界が起こる際にも無数の劫の時間を経過する。

なぜ虚空は同一なのか?もし異なる虚空が存在し、一つの世界に一つの虚空があるならば、虚空には境界が生じ、境界があればそれは虚妄となる。これが最初の五陰世間が形成される過程である。これ以前は一片の混沌状態であり、何が混沌なのか?意根が混沌である。当時は宇宙虚空も天地世界もなく、ただ二つの識心のみが存在した。意根が念を起こして外に向かって縁取する時は、無自覚で非常に微細なものである。そこで第八識は意根に随順して次第に虚空と世界、そして後の五陰世間を展開させた。

無始劫以前に虚空も世界も存在しなかったならば、第八識と意根には時間と空間の概念があったのか?此処の意根と彼処の意根は存在したのか?第八識と意根には来去があったのか?一箇所から他の箇所へ移動できたのか?第八識と意根に時間と空間の概念が存在しないならば、神足通とは何であるか、我々は理解すべきである。諸仏国土へ往生する際、なぜ刹那の間に到達できるのか、それも理解すべきである。

——生如法師の開示
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