衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月17日    火曜日     第4開示 合計369開示

真如の念と無念

一切の念がないものは真如の心であって、妄心である七識ではない。ただ真如は無念であり、一切の法を念わない。衆生の妄心は有念である。六識が存在する限り、六塵の境界に対面し、必ず念いが生じるからである。仏は無上の覚者であるが、その七識心もまた有念である。仏はどの世界の衆生の縁が熟し、応化身を現じて救済できるかを観察する。その観察思惟こそが念いである。念いがなければ衆生の器量や因縁を観察せず、念いがなければ仏は衆生に応じて無量の法を説くことはない。釈迦仏が娑婆世界で衆生を救うことも念いを離れたことはなく、仏が入定し、用事がなく、衆生を救う必要がない時にのみ念いはない。

しかし他方では、真如もまた念いを持つ。真如は六識が念う六塵の境界を念わない以外、その他一切を念うのである。悟った後は徐々に真如の有念と無念を理解できるようになる。それは後得智、別相智、道種智によって初めて了知しうる内容である。ゆえに真如の無念を意識心の無念と見なしてはならず、また意識心の無念を真如の無念と見なしてもならない。悟る前は往々にして仏語や祖師の言葉を誤解する。現在は一般的に真妄の区別がつかず、妄心の体性を真如の体性と見なし、真如が持つ体性を妄心に修行によって達成させようとしている。どうしてそれができようか。要するに、現在の衆生は倒錯した知見が多すぎて、真を真と知らず、妄を妄と知らず、互いに混同して語っているのである。

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——生如法師の開示
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