問:金剛経における「一切の賢聖は皆無為法によって差別有り」とはどのように理解すべきでしょうか。
答:阿羅漢と辟支仏の無為は五陰身を滅し、五陰身の一切の活動を滅し、一切の衆生を利楽する事業を起こさず、仏道の修学を続けようとも思いません。世に生きる時は多くは禅定に入り、世俗の事に少なく関わり、境界に心を着けません。これに対し、菩薩の無為は無為の心である第八識を証得し、無為性の第八識に依って有為の仏法修学と衆生利楽事業を起こします。有為の福徳を積むと同時に有為性を極力減らし、最終的には無為の心性をもって有為の仏教事業を行い、三界に混じりながら三界の法に着きません。このような無為は、阿羅漢や辟支仏の及ぶところではありません。これが「一切の賢聖は皆無為法によって差別有り」の意味であり、その心行いが異なるのです。一つは自己の解脱と苦しみからの離脱のため、もう一つは自己と衆生の解脱と苦しみからの離脱、そして自己と衆生の共なる仏道成就のためなのです。
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