仏道修行には一定の法則があります。それは私たちの善悪の業行のうち、どちらの業が大きく重いかを見極めることです。現世・臨終・来世のいずれにおいても、より重い業が主導し、その重業に従って果報を受けることになります。善業が大きければ、今生で明心見性を得るか、臨終に際してより殊勝な仏国土へ往生できるでしょう。しかし悪業が重い場合、たとえ仏道を学んで修行しても、悪業が継続的に足枷となるため、今生では三悪道からの解脱が困難です。その場合、果報は悪業を主とし、臨終に三悪道へ堕ちて報いを受け、人身を得ることはおろか、他の仏国土へ往生することも叶いません。
あらゆる衆生の業種も総合的に衡量できます。善業の力が強いか悪業の力が強いかによって結果が異なるのです。善業の力が強ければ、現れる外界の生存環境は円満で如意、より殊勝なものとなります。もし衆生全体の悪業が重ければ、結果は悪業を主とし、現れる依報(生存環境)は極めて劣悪なものとなります。例えば貧困生活や災害頻発などです。ただし大修行者で善業が大きい者がいれば、悪業全体の趨勢を転換できます。逆に悪業の力が極めて強い一衆生が存在する場合、他の者に多少の善業があっても、その衆生の悪業が強すぎれば、依報は彼の悪業によって捻じ曲げられ、彼の悪業の果報を主として現れます。そうして現れる生存環境は極めて劣悪となり、農作物の不作や災害頻発が起こるのは、この悪人の悪因縁が大きすぎ、悪業の種子の力が強すぎるがゆえです。
ただし共業の中にも別業は存在します。例えば航空機事故において、死亡する者もいれば無事帰郷する者もいます。また元々その飛行機に搭乗して遭難するはずだったのに、何らかの事情で搭乗を免れ、災難を回避する者もいます。これらの因縁果報は極めて複雑であり、仏の一切種智のみが完全に理解し得るもので、等覚菩薩といえども詳細かつ全面的に把握することはできません。
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