ある衆生の悪業力が極めて強大である場合、他の衆生に多少の善業があっても、それらの善業種子の力はこの悪衆生の悪業種子の力に敵わない。結果として、業の重い方に従って主に現行が生じ、すべての衆生は悪衆生と共に劣悪な生存環境に生きることになる。すべての衆生の如来蔵が出力する業種は、この悪衆生の如来蔵が出力する悪業種に及ばず、最終的な果報は悪報となる。よって瓜果野菜が実らず、衆生は飢えに耐え、貧窮の果報が現れるのである。
ある地域に大修行者が存在し、その修行者の善業種が比較的重く、善の力が強大であれば、その地域の依報環境を改変し、瓜果野菜を豊作に導き、民衆を豊かで安寧な生活に至らしめ、あるいはその地域の災障を消除することも可能である。ただしその地域の衆生の悪業が過重である場合、この修行者は全体の劣悪な環境を改変できない。彼の善業は比較的重いが、衆生の悪業の力に敵わず、衆生の悪業が余りに深刻であれば、依報は劣悪な環境を主とする。世の中に真の修行者が多数存在すれば、おそらく世間の生存環境を改め、衆生の依報を改善することが可能であろう。
もし衆生の悪業が極めて重い場合、たとえ多くの菩薩がこの世に来たとしても、菩薩の善業力が非常に強大であっても、衆生の悪業の力もまた甚大である。両者の力関係において優位な方に従うことになる。善業の力が悪業の力を上回らなければ、悪業を主とする。衆生の如来蔵が悪業種子を出力すれば、現れる果報は悪の果報となる。善業の力が強い場合、例えば極楽世界や他の仏国土においては、仏菩薩たちの善業力が極めて強大で、ほとんど悪業が存在しないため、その仏国土の依報環境は非常に殊勝なのである。
個々の衆生の修行も同様に、その衆生の悪業と善業の孰れが重いかによる。命終する時にはどの業が重いかによって牽引され、地獄業が重ければ重い悪業に従って地獄に堕ち、善業が重ければ善業に従って天界に昇る。もし極楽世界への往生を発願し、その願力が非常に強大で、この願力が彼の悪業力を遥かに凌駕するならば、命終時にこの強大な願力に牽引されて極楽世界に至り、往生を遂げるのである。
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