夢は、末那識が経験した事柄と未経験の事柄に対する執着と攀縁によって生じるものであり、如来蔵はその攀縁に随順して夢を現じ出します。末那識の攀縁と執着性は、末那識の遍計所執性(へんけしょしゅうしょう)に属し、末那識のすべての心の働きを如来蔵は了知しています。了知した後は、末那識の心念と衆生の業力に随順し、夢を現じ出して衆生が夢中で引き続き攀縁と執着を行えるようにします。もし末那識が攀縁と執着を行わなければ、如来蔵は自発的に夢を現じ出すことはありません。
したがって、修行が効果を発揮するに従い、ある人々の夢は次第に濁りから清浄へ、多夢から少夢へと変化します。これは修行が末那識の深層にまで達し、末那識が薫習を受けた後、無明が軽減され執着性が減少したためです。阿羅漢たちの末那識は我執の煩悩を断じ尽くし、世間法への貪着を断除しているため、彼らに夢が現れることは極めて稀です。
夢の中では、第六識(意識)、第七識(末那識)、第八識(阿頼耶識)の三つの識が現行して活動しており、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)は存在しません。そのため夢中の影像は非常にぼんやりとしており、覚醒時とは異なります。覚醒時には五塵の境界がすべて明瞭であるのに対し、夢中では五塵の境界は明瞭ではありません。目覚めた後、目で色塵を見たように感じることもありますが、人物の色彩を実際に見ることはできません。色彩を感じ、広がりを感じ、明暗を感じることはあっても、それはあくまで意識の感覚に過ぎず、真の眼識がこれらの景象を見たわけではありません。夢中と覚醒時に見る境界には大きな違いがあります。
例えば前世の人や他世界の人を見る場合、それは決して眼識によって見られたものではありません。眼識が前世や他世界の人を見ることは絶対にありえず、もしそうなら衆生は全員天眼通を得ていることになります。神通である天眼通がなければ、眼識が過去世の人や物、未来世の人や物、他世界の人や物を見ることは不可能です。もし眼識が見えるならば、眼根はそれらの色塵と相対することが可能であるはずですが、実際には眼根がそれらの色塵と相対することはなく、それらの色塵を縁とすることはできません。もしそうでなければ、眼根は前世や他世界へ行くことが可能であり、身根も他世界へ行けることになります。しかし実際には身体は依然としてベッドの上にあり、どこにも行ってはいません。
夢は独影境(どくえいきょう)であり、如来蔵が直接種子を送り出して現じ出す法境(ほうきょう)の境界です。末那識と第六識のみがこれを縁とすることができ、真に明瞭に了別できるのは第六識だけです。第八識が業種を送り出し、夢中の法境を現じ出すのは、末那識に攀縁執取性があるためです。末那識が攀縁すると、第八識が随順して夢を現じ出します。「昼に思うことが夜の夢となる」という言葉はこの理を説明しており、まさに末那識の思心所による思惟と想念があるからこそ、第八識が夢を現じ出すのです。
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