衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月22日    日曜日     第2開示 合計398開示

「日々の意図的か無意識的な身口意の行いに果報はあるのか」

身・口・意の行為は善・悪・不善不悪の無記業に分けられ、意図的なものと無意識的なものの身口意行は、すべて三業に含まれます。身口意行が善であれ悪であれ、あるいは無記であれ、一旦行われると如来蔵に種子が蓄積され、その種子が縁に遇うことで果報が生じます。したがって、あらゆる業行には果報が伴います。ただし、果報には差異があり、意図的に行ったものは果報が大きく、無意識に行ったものは果報が小さくなります。これは善悪いずれにも当てはまります。

意図的に善行を行えば善果報は大きくなります(ここでの「意図的」とは善心を持つことを意味します)。無意識に善行を行えば善果報は小さくなります(ここでの「無意識」とは本来善を行おうとする意図がなかったにもかかわらず、偶然善業を行った場合を指します)。意図的に悪業を行えば悪果報は大きくなります(ここでの「意図的」とは悪意を持つことを意味します)。無意識に悪業を行えば悪果報は小さくなります(ここでの「無意識」とは本来悪意がなかったにもかかわらず、偶然悪業を行った場合を指します)。

いずれにせよ、果報は必ず生じます。なぜなら、身口意行が生じた時点で如来蔵は記録を行うからです。意図的な身口意行には意図的な記録が、無意識的な身口意行には無意識的な記録がなされ、それが種子として蓄積され、将来的に果報として現れます。身口意行の種子は一旦放出された後、再び如来蔵に戻り、その際に身口意行の情報を如来蔵に持ち帰り、業種となります。

そうでなければ、なぜ衆生にはそれほどの業障や苦報が存在するのでしょうか。如来蔵が記録を行うのも決して作為的ではなく、一定の法則、一定の手順と流れに従って、自然と一切の業行を記録しているのです。他者に対して行ったあらゆる身口意行は、いずれ跳ね返ってくると同時に、高い利息を付けて受け入れねばなりません。もちろん善業についても同様で、高額な利息が付加され、衆生は善業による高額な果報を受け入れることになります。

——生如法師の開示
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