受想行識はすべて空であり、無我である。では、いったい誰が受想行識を行っているのか。受想行識を行うことのできる七識の心は、空にして無我である。受想行識の空を観察することのできる意識は、空にして無我である。観察者が空であることを知る意識は、空にして無我である。一切の法が空にして無我であることを了知する識心は、空にして無我である。心の中に知覚があり、念があり、思想がある限り、それらはすべて空にして無我である。観世音菩薩の耳根円通章においては、一切の法をことごとく空じ、能空と所空の法をすべて空じ去る。最後に残る、どうしても空じることのできない実在こそが自心如来蔵である。しかし、その自心如来蔵にも執着せず、修行は成就したのである。
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