衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年05月21日    金曜日     第2 回の開示 合計3406回の開示

心清らかならざれば相も清らかならず

維摩経には「心の清浄に随って仏国土も清らかになる」と説かれています。心が清らかでなければ仏国土も清らかではなく、なぜなら見るものが清浄でなければ、相も清らかでないからです。どうして国土が清らかでありえましょうか。心が清らかでなければ、どうして清らかな仏国土がありえましょうか。確かに心が清らかになって初めて、見るものも清らかになり、見るものが清らかになって初めて、相も清らかになるのです。凡夫の衆生は心が清らかでないため、見るものも清らかでなく、見られる相も清らかではありえません。ですから衆生が仏を見ても、仏を自分と同じ貪瞋痴の煩悩を持つ者と見なし、仏のあらゆる欠点を探し出し、仏の清らかな行いをけがれた行いと見てしまうのです。例えばある外道の女性が仏法の法会で説法を聴く際、毎回最後まで残り、朝には一番先に法会に到着していたため、人々はこの女性が仏陀と同居していると誤解しました。数か月後、その女性が木の盆をお腹に当てて妊娠を装うと、人々はそれを見て仏陀が確かにこの女性と関係を持ったと思い込み、噂が広がりました。後に四天王が見かねて鼠に変身し、木の盆を噛み破らせて中身を露わにしたため、ようやく人々は真相に気づいたのです。

もし衆生が本当に仏陀を理解し信じているなら、どうして異心を抱いて仏陀を疑うことがありましょうか。結局のところ、衆生の心が汚れ穢れているため、自ら仏陀がそんなことをするはずだと思い込んでいるのです。心の清らかな弟子たちは、誰一人として仏陀に異議や不遜を抱かず、皆が完全に仏陀の清らかさを信じ切っています。衆生の心がどのようなものであるかによって、どのような相を認めるかが決まり、自らの心の認識の範囲を超えることはありません。ですから心が汚れた者は、自分と行動や見解が異なる非常に清らかな心の持ち主がいるとは信じず、事あるごとに疑念を抱き、あるいは疑うことさえせずに直接相手の非を決めつけてしまうのです。この事例から、衆生の心が確かに汚れ穢れており、正しい知見を持っていないことがわかります。 

心が清らかな人は物事に遭遇しても、そのままやり過ごし、思いを巡らせません。しかし心が清らかでない人は、様々な推測、様々な知見、様々な疑念が胸中に横たわり、それを手放そうとせず、是非が吹き荒れ、矛盾が山積みになります。ですから世俗の世界では毎日ごたごたが絶えず、安寧な日々はありません。家庭から社会の大小様々な団体に至るまで、全てこのような状態です。その原因は、衆生の心があまりにも汚れ、穢れが深刻で、誤解が多すぎるため、是非が多くなるからなのです。

——生如法師の開示
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