衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月26日    木曜日     第3開示 合計418開示

善悪業報占察経 巻下

原文:もし真如実観を学修する者は、心性が不生不滅であることを思惟し、見聞覚知に住せず、永く一切の分別の想を離れる。次第に空処、識処、無所有処、非想非非想処などの定境界相を超え、相似の空三昧を得る。相似の空三昧を得る時、識・想・受・行の粗い分別相は、もはや眼前に現れない。ここより修学し、善知識たる大慈悲者に守護され養育されるがゆえに、諸々の障害を離れ、勤修して廃することなく、展転して心寂三昧に入ることができる。

釈:もし真如実観を修習する者は、心性の不生不滅性を思惟し、次第に見聞覚知に住せず、永遠に一切の分別念想を離れ、その禅定は次第に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処などの境界相に到達し、相似の空三昧を証得する。相似の空三昧を証得した後は、識陰・想陰・受陰・行陰および粗略な分別相はもはや現れず、ただ意識の微細な分別のみが存在する。ここからの修学は、大善知識たる大慈悲者によって守護培養されるため、一切の障害を離れ、精勤修習して永遠に休廃することなく、このように展転して心寂三昧に入ることができる。

原文:この三昧を得た後は、すなわち再び一行三昧に入ることができる。一行三昧に入った後は、無数の仏を見、深広な行を発し、心は堅信の位に住する。いわゆる奢摩他(シャマタ)と毘婆舎那(ヴィパッサナー)の二種の観道に対し、決定信解し、能く決定して向かう。修学するに随って世間の諸禅三昧の業を修めても、楽しみ執着することはない。ついには遍く一切の善根菩提分法を修め、生死の中にあっても畏れることなく、二乗を楽しまない。能く習い向かう二観心の最も妙なる巧便に依り、衆智の依る所となり、行の根本となるがゆえである。

釈:この三昧を証得した後は、ただちに一行三昧に入ることができる。一行三昧に入った後は、定中に無数の仏を見るため、広大にして甚深な菩薩の大行を発起し、内心は修める道を堅く信じ、奢摩他(止)の観行方法と毘婆舎那(観)の観行方法に対して深く疑わず、堅固な信念を持ち、決定して信解し、また決定して趣向することができる。この人は自ら修学する世間の全ての禅定境界に随いながらも、三昧境界に貪着せず、三昧境界を楽しみ執着せず、出れば即ち捨てる。最後に全ての菩提道の分証方法を修め遍くし、一切の善根を具足し、生死の中にあってももはや畏れることがなく、二乗法を楽しまず、涅槃を求め取らない。そして奢摩他と毘婆舎那の二種の観心を修習する最も妙・巧・便なる方法に依止する。なぜならこの二種の観心方法は一切の智慧が依止する所であり、修行の根本方法であるからである。

原文:復次、上記の信解を修学する者に、人に二種あり。何等が二か。一には利根、二には鈍根。その利根なる者は、先んじてすでに能く知る、一切の外なる諸境界は、唯心の所作であり、虚偽不実にして夢のごとく幻のごとくであると、決定して疑いなく、陰蓋は軽微で、散乱心少なく、この如き人等は、即ち真如実観を学習すべし。その鈍根なる者は、先んじて未だ知らず、一切の外なる諸境界が、悉く唯だ心のみであり、虚偽不実であることを。故に染著情は厚く、蓋障は数数起こり、心は調伏し難く、まさに先ず唯心識観を学ぶべし。

釈:また、上記の二種の信解を修学する人には二種あり、一つは利根の人、一つは鈍根の人である。そのうち利根の人は、以前からすでに一切の外面的境界は全て心識によって造作されたものであり、虚偽不実で夢のごとく幻のごとくであることを知っており、その心にこれに対する疑惑はもはやなく、五陰身の遮蓋は極めて軽微で、散乱心も少ない。このような人は、真如実観を修習し、一切法が皆真如自性であることを観行すべきである。

そのうち鈍根の人は、元来一切の外在的境界が全て心識によって造作されたものであることを知らず、境界が虚偽不実であることを知らないため、六塵境界に対する貪染心が濃厚で、五陰の遮蓋が時々起こり、心を調伏し難い。このような人は唯識観を修学し、一切境界が識心によって現れることを観行すべきである。

唯識観は一切の六塵境界が妄心の分別によって顕現し、分別がなければ境界もないことを観行するもので、基礎的な浅い次元の観行方法に属する。真如実観は深い次元の観行方法に属し、一切法が真如自性によって出生・顕現し、全てが真如であることを観行する。二種の観行方法は、得られる智慧の境界が異なる。

——生如法師の開示
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