衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年04月26日    木曜日     第2 回の開示 合計417回の開示

実修実証の道

真如実観を初歩的に修習することは、即ち真如三昧を修習することであり、一切の法はことごとく真如であると観じるが、このような修行によっても相似の空なる三昧の境地を証得するに過ぎず、様々な禅定の境地を得ることはできても、真実の空三昧の智慧の境地を証得することはまだできない。真実の空三昧の境地を証得しようとするならば、禅定の中でさらに仔細に真如の自性を参究し、その所在を見出し、その具体的な作用を観察して初めて真実の真如三昧を証得することができる。

私たちが法を学ぶには、相似の法と真実の法を弁別する智慧、解悟と証悟の法の差別を弁別する智慧が必要である。解悟の方法を証悟の方法と見なしてはならず、修定の方法を参禅の方法と見なしてはならず、浅い次元での理解に満足して深く探究する心を起こす努力をせず、ましてや少し得て足れりとせず、努力して大心の菩薩となるべきである。実修の功夫がなければ、ただ口先を弄ぶだけで、解脱の功徳と受用はない。解脱の味を知った者は、心が解脱することのなんと洒脱で自在であるかを知り、世のいかなる珍奇な物をもってしても代えがたいと悟る。

いわゆる実修とは、もし禅定の修行を含まなければ、禅定を修めないならば、いかにして修めることに実があろうか。禅定がない状況、あるいは定が非常に浅い状況では、慧を持つことは可能であるが、このような慧はただ理解の次元の慧に過ぎず、実証上の智慧を持つことは不可能である。理解の次元の慧は、ただ意識心が法を理解する上に留まり、禅宗では情思意解、意識卜度と呼ばれ、その究竟の義が何であるか、なぜそうなのかを知らず証さず、ただ結果だけを知り、証明の過程がない。

そして実証とは即ち証明の過程であり、導き出された結論は既定の答えに符合する。この答えは仏陀が与えたものであり、証明の過程はそれぞれの人が実修観行する過程である。禅定がなければ、いかにして観行できようか。いかにして智慧を生み出せようか。解脱は智慧にあり、成仏は智慧にあるが、禅定がなければ、いかにして真実の智慧を生み出せようか。ある修行者は、ただ最後の慧だけを求め、定を求めず、食事で最後の一枚の餅だけに興味を持ち、前の餅は食べようとしない。禅定なき慧は、あたかも最後の一枚の餅の如く、説いても腹は満たされず、空腹のまま高論を唱えるようなものである。

智慧が不足している者は、往々にして他人の高論を好み、他人の高調を好み、その腹中に真の品があるかどうかを弁別できない。このようにして自らの道業を遅らせやすい。あらゆる法を理解することが即ち証得したことだと思い込み、智慧を得たと思い込み、解脱を得たと思い込むが、実際にはまだまだ程遠いのである。

一切の法を証明する過程は、必ず意根が自ら参与し、意根が確かな結果を知ろうとするならば、必ず事実の真相を知らなければならず、意根が事実の真相を知ろうとするならば、必ず証拠が必要である。この証拠の獲得は苦労の多い過程であり、意識が広く深く細かく証拠を収集する努力をするだけでなく、意根も深い疑情を起こし、共に証拠を探し求め、共に証明し、かつ意識が収集した証拠を確認しなければならない。この過程は非常に容易ではなく、意識のように軽々と随意に認めるようなものではない。

意根が見出したならば、以前の知見を覆すこととなり、そこで意根は触発され震撼され、身心の覚受は非常に強烈である。この過程がなければ、実修実証を語ってはならない。禅定を離れては、この過程は全く完成できず、実修実証を語ることもできず、それは単なる看板に過ぎず、高談闊論に過ぎない。

一切の法の結果は、仏陀がほとんど答えを与えている。例えば夢の如し、幻の如し、水中の月の如し、鏡中の像の如し、陽炎の如しなど、すべて仏陀が与えた答えである。答えを知ることになんの珍しいことがあろうか。証明の過程こそがそれぞれの人の真実の智慧を示すのである。一を問われて三も知らぬ解慧は、少し賢い者なら誰でも得ることができ、なんら珍しいことではない。

未悟の凡夫は、賢く理解力が強く、知識が広博で、文筆や弁舌に優れているため、時間をかければ数万字に及ぶ一切の法は夢の如く幻の如しという論述を書くことができる。しかしこれらの論述には、どこに観行の痕跡があり、どこに実証の痕跡があり、どこに証明の過程があろうか。ある者は偏にこれらのものを好み、日夜暗誦するが、たとえ学問が豊富でも何の役に立つというのか。

——生如法師の開示
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