唯心識観を学ぶ者は、あらゆる時処において、身口意によってなす一切の行為を観察し、これがただ心によるものであると知らねばならない。あらゆる境界に際して、もし心が念に住するならば、すべてを察知し、心を無記の攀縁に陥らせ自覚を失うことのないようにすべきである。念々の間に悉く観察し、心が何かを縁として念を生じるならば、その念を追って心に自覚させねばならない。
解釈:一切の法がただ心であると観察する修行者は、あらゆる時処において自らの身口意が造作する一切の心行を観察し、身口意行がただ一心に過ぎず他にないことを了知する。あらゆる境界に遭遇した時、心識が境界に攀縁し、住着して境界を実体視するならば、直ちにこれを察知し、心識が無記状態に陥って自覚を失わないようにする。念々の間にも観察を続け、心識に境界を縁とする念が生じたなら、その念の起こりを観察して自らの念を自覚し、心を制御して散乱させない。これには意識の内省力・覚知力・観照力を用い、自心を常に観照し把持しなければならない。
原文:己が内心より自ずから想念が生じるのであって、一切の境界が念や分別を有するのではない。所謂、内心より自ずから長短・好悪・是非・得失・盛衰・有無等の見解、無量の諸想が生じる。しかし一切の境界は本来、想念を起こして分別するものではない。当に知るべし、一切の境界は自ら分別の念を持たないが故に、本来長短なく好悪なく、有無を離れ一切の相を超越している。このように観察すれば、一切の法はただ心の想いから生ずると知る。もし心を離れるならば、一法一相として自ら差別を顕現することはない。このように内心を守り、全てが妄念であり実体ある境界ではないと知り、修行を怠ってはならない。これが唯心識観を修学する所以である。もし心が無記状態に陥り自心の念を知らなければ、前境界を実在と見做すことになり、もはや唯心識観とは言えない。
解釈:自らの内心が自動的に想念を生じるのであり、外界の境界が分別するのではない。心が縁に触れて長短・好悪などの無量の見解を生じるが、境界自体は何ら分別を持たない。故に境界は本来無分別であり、あらゆる相を離れている。この観察により一切の法は心の所産であると悟る。心を離れれば一切の差別相は消滅する。常に内心を観照し、全てが妄念であって実体なきことを知り、修行を継続せねばならない。これが唯心識観である。無自覚状態に陥れば前塵影境を実在視し、もはや唯心識観とは言えなくなる。
原文:また内心を守り観察する者は、貪欲の想・瞋恚の想・愚痴邪見の想を知り、善・不善・無記を弁え、心の労苦を了知する。座禅時には心の縁う所に随い、念々に心の生滅を観る。譬えば水流や灯火の炎が瞬時も留まらぬ如し。ここより色寂三昧を得る。
解釈:内心を観察する者は貪瞋痴の妄念を自覚し、心の状態を弁え、苦悩の原因を悟る。坐禅時には心の縁う念を追い、それが刹那生滅することを観じる。水の流れや炎の如く常住しないと観じ、色法空寂の三昧に至る。
原文:この三昧を得た後、次にシャーマタ観心とヴィパッサナー観心を修学すべし。シャーマタ観心を修める者は、内心の不可見の相が円満不動で来去なく、本不生で分別を離れたことを思惟する。ヴィパッサナー観心を修める者は、内外の色が心に随って生滅することを観じ、仏の色身さえも心の想いの如く幻化の如く、水月鏡像の如し。心にあらず、心を離れず。来るのでもなく、来ぬのでもない。生ずるのでもなく、作るのでもない。善男子よ、この二観を修めれば速やかに一乗の道に入る。この唯心識観は最上の智慧の門であり、心を猛利にし、信解力を増長させ、空義に速入し、無上菩提心を発起させる所以である。
解釈:色寂三昧を得た後、止観二門を修学する。シャーマタでは心の本質が不滅不変であることを観じ、ヴィパッサナーでは一切の現象が心の投影であると観ずる。仏身さえも心の所現であり、幻の如く生滅する。この二観を修すれば一仏乗に至る。唯心識観は最高の智慧法門であり、菩提心発起の基盤となる。
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