衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年05月13日    木曜日     第3 回の開示 合計3394回の開示

なぜ禅定中の観行は智慧を生み解脱を得るのか

問:観はどのように智慧を生むのでしょうか?例えば呼吸を観る場合、初期段階では呼吸の動的な軌跡を観るだけで、注意力を強化するのみで智慧は生じず、禅定が極度に深まり粗い呼吸が停止した後に初めて呼吸が無常の法であることを証得します。しかし人の呼吸が最終的に停止する無常の法であることは誰もが知っています。また白骨観の場合、座禅せずに観じなくても、人がいつかは白骨となり虚空に帰すことは誰もが理解しています。私が理解できないのは、この誰もが知っている道理をなぜわざわざ観じる必要があるのか、またそこからどのような智慧を得るのかということです。 

答:意識は全てを理解していますが、その理解に何の役割があるでしょうか?意識は貪瞋痴の煩悩を持つべきでなく、煩悩による業行が悪報を招くことを理解していますが、そのような理解が何の役に立つのでしょうか?意識は成仏の方法も理解していますが、それも何の役に立つのでしょうか?誰もが持つ意識の理解は、最終的に何を解決したのでしょうか? 鍵は身口意の行為を主宰する意根が理解していないことです。意根がどうして主宰せずに貪瞋痴の煩悩なき清浄な業行を造作できるでしょうか?どうして正しく道理に適った方向と目標を選んで仏法を修学できるでしょうか?意根が呼吸などの五陰の活動が生滅無常であることを理解しなければ、どうして五陰無我を証得できるでしょうか?意根が五陰無我を証得しなければ、どうして無我の清浄な業行を主宰して造作できるでしょうか?清浄な業行がなければどうして成仏できるでしょうか?意識は人が最終的に白骨となることを理解していても、意根が理解しなければ、彼は身体に執着し、身体を我と見做し、生死の流転を止めません。 

よって精勤して禅定を修習せず、精勤して呼吸を観察せず、精勤して白骨観を修習しなければ、たとえ意識がどれほど理解していても、結局無我を得ず、主宰して解脱を得ることはできません。全ての禅定の修習と観行の功夫は、意根を薫染させ、意根が理解するよう促すものです。意根が一旦理解すれば、三昧の智慧の境界が現れ、この種の智慧があって初めて心解脱し、智慧解脱し、智慧によって成仏します。意根が理解しなければ三昧の智慧境界がなく、それでは解脱を得られません。もし禅定を修めたくなく、精勤して観行せず、ただ意識の知解に満足するなら、これは生死の業障凡夫と異ならず、業種が変わらなければ、命終後も依然として業障に随って生死輪廻の中で苦報を受けるのです。

——生如法師の開示
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