問:観はどのようにして智慧を生むことができるのでしょうか。例えば呼吸を観じる場合、初期段階では呼吸の動的な軌跡を観じるだけで、注意力を強化することはできても智慧を生じることはありません。禅定が極度に深まり粗い呼吸が停止した後に初めて、呼吸が無常の法であることを証得します。しかし人の呼吸が最終的には停止する無常の法であることは誰もが知っています。また白骨観の場合、座禅を組んで観じなくても、いずれ人の屍骨が塵となり虚空に帰することを誰もが理解しています。私が理解できないのは、この誰もが知っている道理をなぜ観じる必要があるのか、またそこからどのような智慧を得るのかということです。
答:意識は全てを理解していますが、その理解に何の役立つのでしょうか。意識は貪瞋痴の煩悩を持つべきでなく、煩悩による業行が悪報を招くことを理解していますが、そのような理解に何の意味があるのでしょうか。意識は成仏の方法も理解していますが、それに何の役立つのでしょうか。各人が持つ意識の理解は、結局何を解決するのでしょうか。 肝心なのは、身口意の行いを主宰する意根が理解していないことです。意根がどうして無貪瞋痴煩悩の清浄な業行を主宰して造作しないことができましょうか。どうして正しく道理に適った方向と目標を選択して仏法を修学することができましょうか。意根が呼吸などの五陰の活動が生滅無常であることを理解しなければ、どうして五陰無我を証得できるでしょうか。意根が五陰無我を証得しなければ、どうして無我の清浄な業行を主宰して造作することができましょうか。清浄な業行がなければどうして成仏できるでしょうか。意識は人が最終的には白骨となることを理解していても、意根が理解していなければ、身体を執着し身体を我と見做し、生死の流転を止めることができません。
したがって、禅定を精勤して修習せず、呼吸を精勤して観察せず、白骨観を精勤して修習しなければ、たとえ意識がどれほど理解していても、結局無我となることはできず、主宰して解脱を得ることはできません。すべての禅定の修習と観行の工夫は、意根を薫染させ、意根を理解させるためのものです。意根が一旦理解すれば、三昧の智慧の境界が現れ、この種の智慧があって初めて心解脱し、智慧解脱し、智慧によって成仏します。意根が理解しなければ三昧の智慧境界はなく、それでは解脱を得ることはできません。もし禅定を修めず、精勤して観行せず、ただ意識の知解に満足するならば、これは生死の業障を持つ凡夫と異ならず、業種が変わらなければ、命終後も依然として業障に随って生死の輪廻の中で苦報を受けることになります。
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