現代で製造される機械はすべて自動化されたプロセスであり、中には人の手による操作がまったく見えないものさえあります。これらの機械は絶えず稼働し、一つのプログラムまた一つのプログラムと順次作動しています。これらの作動はすべて因縁法であり、機械を稼働させる一定の因縁があってのことです。機械は何の理由もなく勝手に稼働するものではありません。機械が稼働する縁は数多くあり、それぞれの縁はみな異なっており、縁が異なれば作動の法則も異なり、加工されてできる製品も異なってきます。では、機械が稼働する因とは何でしょうか。機械はそれ自身で自動的に稼働できるのでしょうか。
また、たとえば家の洗濯機は、水の中の衣類をかき混ぜながら絶えず回転しています。これは一つのプロセスですが、このプロセスはどのようにして生じるのでしょうか。洗濯機はそれ自身で回転するのでしょうか。人が操作していなければ、洗濯機はただの鉄屑の山にすぎず、何ひとつできません。人がそのボタンを押してこそ、洗濯機ははじめて稼働するのです。しかも洗濯機はすべて人が設計した自動化プロセスであり、人が電気を供給してこそ、洗濯機ははじめて働くことができます。一つのプロセスまた一つのプロセスと順次作動していくのは、自然に備わっているものなのでしょうか。機械の稼働の中で、私たちは何を見出すことができるのでしょうか。
もし世事をわきまえない子供であれば、機械は人が操作しているのだということを知らず、大人が機械のそばにいないのに、機械がひとりでに動いていると考えるでしょう。しかし、すでに世事をわきまえている人であれば、たとえ誰かがこの機械を操作しているのが見えなくても、機械がまさに人によって操作されていることを知っています。洗濯機は私たちの五陰の身にたとえられ、五陰の作動はプロセスにたとえられます。このプロセスは何の縁もなく存在するものではなく、無因に存在するものでもありません。縁があり、さらに因があるのです。五陰が作動する因とは何でしょうか。
五陰は実在ではないにもかかわらず、なお作動できるというのは、これは不思議ではありませんか。問うべきは、なぜ偽りのものでありながら作用を持ちうるのか、一体なぜなのか、ということです。五陰を自然に備わったものとみなせば、疑情を起こすことはなく、疑いを起こさなければ探究しようとせず、そうなれば事実の真相を知ることはできません。私たちはあらゆる事柄を見るとき、表面的な現象だけを見てはなりません。現象の背後にはどれほど多くの秘密が隠されているのか、私たちは知っているでしょうか。あらゆる事物の本質とは何でしょうか。それは表面に現れている通りのものでしょうか。智者は探究すべきであり、事実の真相を知るよう努め、その中の奥義を暴き出すべきです。
五陰の身が作動するプロセスの背後に、もし真実のものがなければ、五陰の身はなお作動するでしょうか。なおプロセスを持ちうるでしょうか。色身の五陰が滅した後に、何が残るのでしょうか。身体が火葬された後に、何が残るのでしょうか。阿羅漢が涅槃した後に、何が残るのでしょうか。もし何も残らないと考えるなら、それは断滅見であり、断滅空 (uccheda-śūnyatā) であって、仏の説くところに背くものです。もし五陰が滅した後にも霊知心が滅せず残ると考え、この霊知心はあらゆる事を知ることができ、未来世へ行くことができるとするなら、これは常見です。長く存在しないものを、長く存在しうると言うなら、それは常見であり、仏の説くところに背くものです。
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