また、何が有るが故に取が有るのかと思维し、そこから愛が有るが故に取が有ると推し出す。すなわち、貪愛の境界があるが故に取が有るのです。また、何が有るが故に愛が有るのかと思维し、受が有るが故に愛が有ると推し出す。すなわち、苦受・楽受・不苦不楽受があるが故に、貪愛が生じるのです。また、何が有るが故に受が有るのかと思维し、触が有るが故に受が有ると推し出す。すなわち、六根が六塵に触れるが故に、受が有るのです。また、何が有るが故に触が有るのかと思维し、六入が有るが故に触が有ると推し出す。また、何が有るが故に六入が有るのかと思维し、名色が有るが故に六入が有ると推し出す。また、何が有るが故に名色が有るのかと思维し、名色である受精卵がどのように出生し成長するのかを思维するのです。
彼らは思惟し推証して、無明が断たれないが故に、意根が自己を攀縁し執取すると、中陰身において入胎し、そこで受精卵の中に住着するのだと知ります。しかし、意根だけが入胎し住胎できるのでしょうか?もちろんそれもできません。なぜなら、胚(はい)もまた地水火風の四大種子から構成されているからです。意根の中に四大種子があるのでしょうか?ありません。如来蔵 (tathāgatagarbha) に四大種子があって、物質的な胚を形成できるのです。如来蔵・阿頼耶識 (Ālayavijñāna) がなければ、意根は入胎することも住胎することもできず、胚を変生することもできません。如来蔵が四大種子を出力して胚を成長させるのです。意根にはこの功能作用がなく、如来蔵が種子を出力して胚の頭や四肢などの身根を形成し、如来蔵に六識心の種子があって六識心を出生させ、胎児に分別覚知性を持たせるのです。
彼らはここまで推し進めると、名色は如来蔵によって出生されたものであると知ります。これが「名色縁識、識縁名色」の真実の義なのです。これもまた十因縁法の内包であり、十二因縁法を逆に推し求めた結果でもあります。では、如来蔵はどのように出生されたのでしょうか?如来蔵には生がなく、法爾如是、本来より存在し、祂(神様)を出生させる法はありません。それゆえ、縁覚の人は推し求めても推し求めても、如来蔵に至るとそれ以上は推せなくなり、推るべき果てに至ったのです。彼らはそこで、如来蔵が五陰 (pañca-skandha) の名色を生じさせたのだと明らかにします。これが識縁名色、名色縁識の因縁法なのです。
宇宙の器世間というこれらの色法も、地水火風の四大種子から構成されており、これらの種子はすべて如来蔵の中に存在しています。すべての衆生の業縁が成熟する時に、すべての衆生の如来蔵が四大種子を出力し、共に宇宙の器世間を変現するので、衆生は初めて出生できるのです。では、衆生が出生した後、生活に必要な物質の五塵はどのようにして生み出されるのでしょうか?これは百法明門に関わってきます。百法明門の中で説かれているのは、色法は八識心王と八つの識の心所有法が和合して運作することによって生み出される、ということです。八識心王は八つの心を含み、心所有法は五遍行、五別境、十一の善法、六根本煩悩、二十の随煩悩、そして必ずしも善でも悪でもない四つの法を含みます。色法には眼・耳・鼻・舌・身、色・声・香・味・触、法処所摂色があり、全部で十一です。
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