では、心法の七つの識はどのように生じるのでしょうか。まず、意根は無始劫以来存在し続け、断滅したことがありません。如来蔵が識の種子を送り込み、意根の存在と作用を維持しています。如来蔵がなければ意根は存在し得ません。意根は生生世世にわたって熏習された煩悩を現在世から未来世まで引き継ぎます。そのため意根に含まれる無明は極めて深く、煩悩の染汚も甚だしいのです。四果に至って初めて意根の執着を断じ、三界への執着を滅することができ、五陰世間の一切の法を滅して無余涅槃に入る能力を得ます。したがって意根は滅ぼし得るものであり、無常で虚妄の存在であって、真実不変の我ではありません。
意根もまた識心です。識の種子は如来蔵に存在し、如来蔵が意根の識種子を送り出すことで意根は現行して作用します。これに対し六識は後天的に生じるもので、生々世々の色身において毎度如来蔵から新たに生じます。如来蔵が六識の種子を送り出すことで、六識は現行して分別作用を起こします。六識は後生的なため受ける熏染が軽微で、断除しやすい性質を持ちます。六識は境界に熏染され、意根の熏染を受け、善に遇えば善となり、悪に遇えば悪となり、境界に従って転じやすいのです。そのため六識は修行によって変容しやすく、変容した後に再び意根を熏習して影響を与え、意根をも変容させます。これが私たちの修行の成就です。
問題に戻りますと、心が先に滅ぶのか、法が先に滅ぶのか。心が先に生じるのか、法が先に生じるのか。以上の分析によれば、一切の法は如来蔵から生じますが、如来蔵自体は生じることがありません。七つの識心は如来蔵が識種を送り出すことで生じ、八つの識心王が八識の心所有法と和合して色法を生じさせます。したがって問題は既に明らかです。八識がなければ色法もなく、境界法も存在し得ません。心が種々の法を生じさせるからこそ法が生じるのです。
では滅ぶ場合はどちらが先でしょうか。如来蔵は滅びず、境界は先に滅びることはできません。もし境界が先に滅びても七識が依然として存在するなら、誰が境界がなくなったことを知るのでしょうか。境界がなくなれば六識は存在できず、分別作用も起こせません。たとえ存在しても意味がありません。なぜ存在できないのか。六識の発生は六根が六塵に触れた後に如来蔵が六識を生じさせるためで、境界がなければ触れることもなく、触れなければ六識は生じないからです。
したがって法を先に滅ぼして後に心を滅ぼすのではなく、心を先に滅ぼして後に法を滅ぼすのです。例えば昨日人と口論したことが、今も心に残って苦しんでいる場合、口論の事実は既に過去なのに、なぜ心にこのことが残っているのでしょうか。それは心が滅んでいないからです。もし心が滅んでいれば気に留めず、このことを考えません。あるいは分別によって煩悩を起こす心が修行によってなくなったなら、口論の最中にも心が動じず、そもそも口論など起こり得ません。心がなければ境界も生じないのです。
意根の観点から言えば、修行によって意根の攀縁性が滅び、五塵上の法塵に攀縁しなくなれば、六識は境界法を了別しなくなります。それが心なき状態です。目で色を見ても見えず、耳で声を聞いても聞こえず、境界は存在しないかの如く、何の作用も起こせません。もし意根が滅びれば六根・六塵・六識も全て滅び、何もなくなります。そうなれば境界はどこにあるのでしょうか。総括すれば、心が滅ぶことで種々の法が滅するのです。
心が生じれば種々の法が生じ、心が滅すれば種々の法が滅します。修行とは心を修めることであり、心が変われば全てが変わるのです。
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