意根は無始劫以来、自己中心的であり、完全な個人主義者で、常に我執を抱えています。私たちは常に意根を分析してみるべきです。自己中心的な行いを続けた末に、いったい何を得られるのでしょうか?生死輪廻の苦しみ以外に何があるでしょう?長年にわたり昼夜を問わず縁を攀じても、何を掴み得たでしょうか?生死を繰り返すだけで、結局何も得られず、私たちは無量劫を経ても何を得たのでしょう?業障と煩悩以外には何もありません。
意根が無我を証得していない限り、生死を恐れるのは当然です。無生死の境地を証得していないため、依然として我執が残っています。意根が三界の万法が虚妄で無我であることを実証し、深甚な禅定の作用によって初めて諦観し、我執を断じることができます。無我を証得せず真我を悟らない段階では、すべて意識心の理解に留まり、その理解は煩悩を抑圧する作用しかなく、煩悩を断ち切る力はありません。意識心の抑圧は石で草を押さえつけるようなもので、石を取り除けば草は再び生い茂ります。事実を提示し道理を説くことによってのみ意根を折伏できるのです。意根は詳細な道理を必要とし、粗略な教えでは理解も受容もできません。煩悩を断除するには、我見を断った後、様々な境界において修行し、境界が現前した時に煩悩が頭をもたげた瞬間、智慧の鋭い刃で毅然と断じなければなりません。そうして初めて煩悩は滅します。煩悩が表面化せず心に潜んだままであれば、根こそぎ除去できず、再び生長するでしょう。
修行において意根を捉えることができれば急速に進歩します。これが大いなる近道です。依然として意識心に働きかけている段階では、道から遠く離れています。自らを内観し、定力が不足しているなら禅定を修し、基礎が固まっていないなら基礎を固めるべきです。急功近利を求めれば、将来楼閣が崩壊します。修行は跳躍的に進むものではなく、一歩一歩着実に進むべきです。焦って未熟な悟りを得ようとするより、着実に修行し煩悩を降伏させ、慢心を制御する方が大切です。一旦悟りを開けば、その後の道程は急速に進み、転倒することもなくなります。
修行の根本目的は自我を降伏させることです。自分を他人より優れた存在にすることが目的なら、道に背いています。「私は他人より勝っている」という慢心は重い業を造り、悪縁を結び、将来苦悩を受ける原因となります。常に他人より優れていたいという我執を降伏させなければ、修行は大きな障礙に直面し、慢心が道を蔽い長期間停滞することになります。
意根の慢心は往々にして「私の能力」「私の優秀さ」「私の権力」「私の名声利養」といった形で現れ、これが道を蔽う重大な障礙となります。無我の解脱果徳を得るためには、意根を観察し、意根を導くことが正しい修行の道です。
結 語
ほとんどの人が意根の状態を意識の状態と誤解しているため、真の意根の特性を説くと「意根と意識を混同している」と批判されます。しかし実際には99%以上の人が混同しています。煩悩と無明に覆われ、識を智に転じていないため、意根の現行作用を観察できず、必然的に誤解するのです。どの時代でも大多数が高智商で煩悩を離れた存在であることはなく、ましてや大多数が識を転じて妙観察智を得ることは百の可能性もありません。自らを過信し誹謗する者は重大な結果を招きます。
意根に関する内容は全て唯識種智の範疇に属し、各識の心所法も同様です。初地菩薩に至らない者は沈黙を守るべきです。現量観行の智慧がなければ、意根の具体的な作用を観察できず、推測と憶測に基づく誤った解釈を広めることになります。娑婆世界の学仏者も同様で、多くの者が識を転じることは不可能です。この智慧がなければ黙々と修行に励み、初禅を修め、煩悩を断じ、観行の智慧を培い、如来の家に入って初めて定中において意根の作用を現量観察し、衆生を導くべきです。
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