問:最近数日、私は全身の骨格イメージと全身骨格の写真を比較観察しております。心の中に浮かぶ身体各部の骨格イメージは、まるで家の中の様々な物品のように鮮明で、身体が動く時には心の中の全身骨格イメージも連動して動き、心が非常に落ち着き、頭の散乱も軽減されたように感じます。このような観行は正しいのでしょうか?
答:これは白骨観の初期準備作業です。全て意識によって行われ、意識が資料を収集し、整理・分類・分析した上で白骨の形象を推論し想像します。しかし意識が如何に推論や想像を重ねても、三昧は現れません。これらの行為は現量ではないため、如何に白骨がこのようなものだと心で確信しても、現量の三昧境界は現れないのです。ちょうど『観無量寿経』の十六観を如何に想像しても、十六観のいずれの現量三昧境界も現れず、最も簡単な日想観の三昧さえ現れないのと同じです。意根が観を成熟させていないか、あるいは意根がまだ観を起こしていないからです。
意識が行うこれらの資料収集作業は、小さな秘書の仕事のようなものです。資料を完璧に細かく整理した後、意根という上司に提出すれば、後はあまりすることがなく、上司の次の指示を待つだけです。意根がこれらの資料を閲覧した後、その重要性を認めれば、他の仕事を手放し、専らこの資料を研究し、精力を集中して考察を重ねます。次第に心中で資料の具体的な内容が明らかになり、事実を発見し、智慧が生じ、三昧が現れるのです。
上述した意識の初期作業は基本的に正しいものです。骨格構造図との比較観察や骨格の想像は、意根に情報を伝達し、意根を薫染し、意根の注意力を骨格の観想へと転移させる行為です。現時点で初歩的な効果が見られますが、さらに意識の観想を強化し、意根を薫染し続け、意根の攀縁を減らし、注意力をより集中させ、定力を高める必要があります。意識の観想が極めて鮮明になり、定力も強固になれば、意識は無理に観想する必要がなくなり、思考分析や整理分類といった初歩的な作業は不要となります。動かずに保持するだけで、意根が専注して思量するようになります。功夫は少しずつ積み重ね、徐々に水到渠成の如く三昧境界が現れるでしょう。
意識の初歩的な推理・整理・分類・分析などの作用を、究極の証果方法と見做すのは余りにも浅薄です。これらの意識的作用は我見を断じ証果を得る境地とは程遠いものです。意識に工夫を凝らす全ての方法は、過去に禅宗の祖師方によって厳しく叱責された情思意解そのもので、智慧ある者はこれを究竟としません。意識的思考方法が盛行すれば、大乗であれ小乗であれ必ず邪道に陥り、仏教の修証は必ず滅びます。修証が失われれば、知見のみが残り、やがて知見すら不完全となり、仏教は滅亡するでしょう。
故に今の人は福徳と智慧を欠き、祖師方が塵芥同然に捨てたものを再び掘り起こし、宝物のように崇めています。しかし意識による証果の推奨は仏法を滅ぼす行為です。直ちに懺悔し改正すべきであり、再び邪道に歩みを進めてはなりません。さもなければ結果は計り知れません。大丈夫たるもの自ら天地を支えるべきで、過ちあれば即時に改め、虚名に囚われず、果を得るか否かは誰が決めるのでもなく、如来蔵が決めるのです。証果の事実に符合すれば、如来蔵は自然に聖人相応の果報を現じ、誰が否定しても無駄です。同様に、証果の事実に符合しなければ、如来蔵は証果なき凡夫の果報のみを現じ、如何なる手段を用いようと証果聖人の果報は現じず、誰が証果の印可を与えようとも無駄です。さらに大妄語の不可愛なる果報を受け、結局は損害ばかりが大きく、智者はよくよく考えるべきです。
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