衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年05月06日    木曜日     第1開示 合計3377開示

なぜ白骨観を修することで我見を断じ、初果から四果を証得できるのか?

凡夫の衆生は無始劫以来、愚痴の無明のために禅定と智慧がなく、五陰および一切法に対する観察と認知は、粗略に表面の現象にとどまるしかなく、実質的で究竟の意味における観察ができない。それゆえ、ずっと色身を実有の法とみなし、識心の作用もまた実有の法とみなして、その苦・空・無常・無我を知らない。これは五陰に対する誤った認知である。白骨観を修習することによって、定力がますます深くなり、その観察力はますます強くなり、ますます微細になって、色身の生滅変異をはっきりと観察できるようになり、空の真相が水面に浮かび上がり、色身全体の肉体は白骨の姿となって現れる。最後には白骨もまた空となり、これによって身見と我見が断除されるのである。

観行の全過程は三昧 (samādhi) の状態の中にあり、色身の骨肉の骨相と空相は自然に生じた現量の境界であり、意識が空中に想像し推理して作り出した非量の境界ではない。すべての三昧 (samādhi) は意根によって発起されたものであり、いずれも意根の現量の智慧による認知の境界であり、意識の比量や非量の成分はまったくない。意識は三昧の中では受動的に知ることしかできず、意根に随って動き、随って知る。三昧の前には、意識は主動的な思惟観察の作用を持つことができ、意根を道へと導いたのち、禅定はますます深く入っていき、最初の定境三昧 (samādhi) が現れ、意識の作用力はますます小さくなり、意根の過程における思量 (manasikāra/manana) の作用はますます大きくなる。意根が法を如実に見たのち、智慧が現れ、真の定慧等持の三昧 (samādhi) が現前し、このとき証果するのである。

禅定がなければ、意根は色身と五陰に専注して向かうことができず、如実に思量 (manasikāra/manana) して法を見ることができず、色身五陰の真実の相貌を知らず、智慧は現れることができない。白骨観は禅定を生み出し、禅定によって智慧を引き出し、最後には我見を断して証果する。最初は不可能に見えた白骨が最後には心中に現れる。これは定果色であり、定果色の白骨を見れば色身は我に非ざることを知り、定慧等持の三昧 (samādhi) が現れ、法眼浄となって証果するのである。

——生如法師の開示
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父子合集経講記(二三五)

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修行白骨観の過程

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