衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月07日    日曜日     第1開示 合計885開示

『父子合集経』選講

大王よ。その識が生起する時、来たるところなく、滅して去るところなし。その縁が生ずる時、来たるところなく、滅して去るところなし。その業が生ずる時、来たるところなく、滅して去るところなし。大王よ、いささかな法も、この世から他世へ至ることはない。なぜならば、自性空なるがゆえに。

しかし、善業であれ悪業であれ、その本性は空であり、主宰するものではなく、生滅を繰り返すものである。生ずるに来るところなく、滅するにも去るところなく、幻のごとく実体がない。例えば私が刀で人を殺す場合、この行為の前には、この業は存在せず、来たるところもない。この行為の造作にも造作者はおらず、表面的な現象はあたかも幻術師が幻化したかのようで、業を造る者はいない。人を殺す行為は色身と識心が和合して作用したものであり、色身は虚妄、識心も虚妄で、いずれも実体あるものではない。五蘊の行為は真実ではない。さらに、人を殺す行為が生じた後は、刹那に消え去って跡形もない。したがって、行為の造作そのものは空であるが、しかし業の種子を残す。

そして業の種子そのものも空であり、来たるところなく、滅して去るところもない。無から無へと至り、報いを受けた後は、業の種子も跡形もなく消滅する。業の種子もまた空であり、虚妄である。もし業の種子が虚妄でなければ、報いを受けた後、あるいは懺悔した後も業の種子は消え去るはずがない。もし業の種子が消え去らないならば、衆生は永遠に報いを受け、際限なく、人を殺した者は永遠に地獄で報いを受け、永遠に人に殺され続け、終わる時がないはずである。したがって、あらゆる罪福の業は虚妄であり、来たるところなく去るところもないと言える。とはいえ、あらゆる福業は、ついには衆生を次第に成仏へと向かわせ、最終的には仏果を成就させる。あらゆる罪業は、ついには衆生に苦しみを受けさせ尽くすことがなく、嘆き悲しむことを止めない。分析を重ねてみると、ただ阿頼耶識のみが真実不変であり、不生不滅で永遠に存在する。その他一切の法は空であり、幻化したものであり、刹那刹那に生じ、刹那刹那に滅する。生滅は稲光よりも速い。

——生如法師の開示
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