衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月06日    土曜日     第4 回の開示 合計884回の開示

三能変識のそれぞれの作用

意識が縁とする一切の法塵は、意識が直接顕現するものではなく、全て如来蔵によって顕現されるものです。意識が縁とする法に意根という媒介が必要かどうかと言えば、当然ながら一切の法は意根なくしては現れず、意根が縁としない法には意識が生じる理由がなく、意識が生じなければ法を了別することもできません。経典には「意法を縁として意識が生ず」と説かれています。

ある特例として、意根が杯を縁として意識が生じ、その意識が杯を筆筒と錯覚する場合があります。この時、筆筒は意根が縁としていないため、意識が単独で顕現して縁とするものだと言う者もいます。しかし実際に筆筒という法が存在するかどうか考えてみましょう。存在しません。筆筒は亀の毛や兎の角のようなもので、そもそも亀に毛はなく、存在しないものは空であり、どうして識心で顕現される必要がありましょうか。もし四大種子によって顕現されるとすれば如来蔵の顕現ですが、もし如来蔵が四大種子で顕現したのなら、亀の毛は実有の法となり、誰もが肉眼で見えるはずです。しかし仏でさえ亀の毛や兎の角を見ることはできません。実有の法でなければ見えないのです。

如来蔵の顕現でなく、実有の法でないなら、意識はさらに顕現できません。意識には何の種子もなく、法を顕現する資格もありません。同様に意根と五識もいかなる法を顕現する資格がなく、蛇を縄と錯覚したり杯を筆筒と見なすのは、単なる誤認に過ぎず、病める目が空中の華を見るようなものです。存在しない華を誰が顕現できましょうか。杯中の蛇影も同様で、蛇は存在せず、存在しない法について生滅や顕現を論ずることはできず、ただの誤認です。張三を李四と見間違えるように、李四という人物が元々存在しないなら、誰が李四を顕現し、どうやって李四を顕現する能力がありましょうか。種子で李四を顕現すれば李四は実有となり、種子を使わなければ李四は存在せず、これも病める目が空中の華を見るようなものです。李四の真偽や年齢、性別を弁別することに何の意味がありましょうか。

いかなる法も意根が縁としなければ、意識と意識の妄想は生じず、全て意根が主導して如来蔵が法を提供します。意根は必ず縁とするのです。しかし意識が一旦生じれば、必然的にその役割を果たします。そうでなければ第三能変識の存在意義が失われます。第二能変識は如来蔵の顕現を指揮し、第三能変識は現象を顕現し了別し、思惟分析と処理を担当します。能変とは直接の顕現ではなく、実質は全て如来蔵の顕現です。ただ意根と六識が補助し現象を現出させ、如来蔵の顕現を導くに過ぎません。意識の作意は意根の作意に影響し、意根の作意は如来蔵の作意を導きます。故にこの三者が和合して初めて法が生じるのです。意識が比量する時、意根はこれを了知し、比量に同意して思量すべき法塵の顕現を決定すれば、如来蔵はそれに呼応します。如来蔵は意識の選択に従わず、ただ意根の選択にのみ従うのです。

——生如法師の開示
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