意識が縁とする一切の法塵は、意識が直接顕現するものではなく、全て如来蔵の顕現によるものである。意識が縁とする法に意根という媒介の作用が必要かどうか。当然ながら、一切の法は意根なくして顕れず、意根が縁としない法には意識が生じる理由がなく、意識は了別法を生じることができない。経典に「意法を縁として意識が生ず」と説かれる。
ある特例として、意根が杯に縁して意識を生じ、意識が杯を筆筒と見做す場合がある。或る者は「この筆筒は意根が縁としないもので、意識が単独で顕現し縁とするものだ」と主張する。しかし実際に筆筒という法が存在するか考えてみよ。存在しない。筆筒は亀の毛や兎の角の如し。亀に元より毛なく、存在しないものは空である。いったいどの識心がこれを顕現しようか。もし四大種子によって顕現するなら如来蔵の顕現と言えるが、もし如来蔵が四大種子を用いて顕現するなら、亀の毛は実有の法となり、誰もが肉眼で見えるはずである。しかし仏でさえ亀の毛や兎の角を見ることはできない。実有の法でないから見えないのである。
如来蔵の顕現でなく、実有の法でない以上、意識はさらに顕現できず、何らの種子も持たず、いかなる法を顕現する資格もない。同様に意根と五識もいかなる法を顕現する資格を持たない。蛇を縄と見誤り、杯を筆筒と見做すのは錯覚に過ぎず、病める目が空華を見るようなものだ。存在しない花を誰が顕現できようか。杯中の蛇影も同様で、蛇は存在せず、存在しない法について生じ顕現する主体はなく、錯覚に過ぎない。張三を李四と見誤るように、李四という人物が元より存在しないなら、誰が李四を顕現しようか。いかなる能力で李四を顕現するのか。種子を用いて李四を顕現するなら李四は実有となり、種子を用いなければ李四は存在しない。これも病める目が空華を見るようなものだ。李四の真偽や年齢、性別を弁別することに何の意味があろうか。
意根が縁としない法には意識と意識の妄想もなく、全ては意根が主導して如来蔵が提供する法であり、意根は必ず縁とする。しかし一旦意識が生じれば、必然的に相応の作用を及ぼす。さもなくば第三能変識の意義は失われる。第二能変識は如来蔵の顕現を指揮し、第三能変識は顕像と了別、思惟分析と処理を担う。能変とは直接の顕現ではなく、実質は全て如来蔵の顕現である。ただ意根と六識が補助し顕現を示し、如来蔵の顕現を導くに過ぎない。意識の作意は意根の作意に影響し、意根の作意は如来蔵の作意を導く。故に三者が和合して初めて法が生じる。意識が比量する時、意根はこれを了知し、比量に同意して思量の法塵を決定顕現すれば、如来蔵はこれに呼応する。如来蔵は意識の選択に従わず、ただ意根の選択に従うのである。
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