そもそも真源は湛寂にして、覚海は澄明なり。名相の端を絶ち、能所の跡無し。最初の不覚、忽然として動心を起こし、業識の由を成し、覚明の咎と為る。明に因りて照を起こし、見分俄かに興り、照に随いて塵を立て、相分安んじ布く。鏡の像を現すが如く、根身を頓に起こす。
(釈)「伏以真源湛寂,覚海澄清,絶名相之端,無能所之跡」とは如来蔵の体性を説く。如来蔵は真実にして万法の源なり。その清浄寂滅、動揺せず、覚性を具え万法を覚知す。故に「覚海」と称す。如来蔵の本体には一切の名相無く、六根・六境・六識、三界世間の一切法の名相無し。その自身の名称も仮の安立に過ぎず。七識の能見性も六塵の所見性も無く、能所の性を絶つ。
「最初不覚,忽起动心,成業識之由,為覚明之咎」とは、無始劫前に意根が如来蔵と共存し、無明により法界の実相を覚えず、忽然として心動き、外境を貪求する心を起こす。如来蔵これに随順して根身器界を現じ、業行が生じ、第七識が業識と成り、一切の生死過患ここに起こる。その過失は意根が三界世間を明覚せんとし、本心自性を守らざるに在り。
「因明起照,見分俄興,随照立塵,相分安布,如鏡現像,頓起根身」とは、意根に明らかにせんとする念有れば、照覚を起こし世界を見んと欲す。七識の見分俄かに興り、見分有れば必ず所見の相分塵境現わる。如来蔵意根に随順して六塵相分を現じ、能所安立す。その後如来蔵鏡像を現すが如く、頓に根身器界を現じ、五陰身出現し、三界世間安立せり。
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