如来蔵はあらゆる現象を生じる因ではあるが、単独の因だけでは現象を生じることはできない。如来蔵が様々な縁を依りどころとし、あらゆる法の種子を蔵し、さらに意根の執取を待って初めて万法を生じるのである。一つの縁が欠けても如来蔵は万法を生じ得ず、業縁が成熟し縁が具足することが現象発生の条件である。しかるに如来蔵そのものは不生不滅であり、元より存在するもので、何ものによっても生じられることなく、また如来蔵を生じ得る事象や理体も存在しない。如来蔵は天地の始源、万物に先立つ存在であり、法爾自然の理であって、これ以上の説明を要しない。故に如来蔵は独立自存し、他縁に依存せず単独で存在し得るのである。もし生じられた存在ならば、それを生じたものに依存せざるを得ず、独立し得ない。
これは浅薄な世俗法ではなく、衆生が容易に理解し得るものではない。出世間法は大多数の衆生と相応せず、故に衆生の理解を超える。仏地においてすら、世尊の真如心が五蘊身を現じるには様々な縁を必要とし、三蔵十二部経を説くにも諸縁を要し、戒律制定にも縁を必要とし、衆生を済度するにも各々の縁を必要とする。あらゆる事象は単独の因から生じず、法は縁によって生じ現れるのである。
世尊が娑婆世界に来臨されるにも多くの縁を必要とされる。人間界に来られる前から、世尊は娑婆世界の衆生の縁が成熟したか、いつ成熟するかを観察される。衆生の修行の縁が熟すれば世尊降誕の縁も成熟し、世尊は先遣の者を人間界に派遣され、ご自身の降誕を待ち、ともに弘法に協力させるのである。世尊が成道された後、三乗の法を説くにも多くの縁を必要とされ、世尊ご自身の意志だけで如何様にも決定できるものではなく、常に衆生の縁とその他の関連する縁を見極められるのである。
3
+1