衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月17日    木曜日     第4 回の開示 合計504回の開示

一切法は如来蔵性なり

仏が楞厳経において、昼間の明るさも日の色ではないと説かれました。では懐中電灯の光明はどこから来るのでしょうか。

楞厳経において仏は説かれます:(一切の法は)自然性ではなく、因縁性でもなく、全て如来蔵性であると。世尊は特に例を挙げて説明されました。太陽が天空で輝いていても、光明は太陽から来るのではなく、光明は本来如来蔵性であると。つまり太陽が光るのは表面的な現象であり、太陽の中に光明はなく、虚空にも光明はありません。ただ縁ある衆生の一部が光明を見ることができるのは、光明が如来蔵から来ていることを示しています。光明は太陽という縁を借りて、如来蔵から生じたものです。光明は色法であり、地水火風の四大種子によって構成されています。ただ如来蔵の中にのみ四大種子が存在し、光明を形成することができます。太陽にも虚空にも四大種子は存在せず、光明を生じることができないため、光明は即ち如来蔵性なのです。

同様に、懐中電灯の光も懐中電灯から来るのではなく、懐中電灯の縁を借りて如来蔵から生じます。この光も地水火風の四大種子によって構成されています。懐中電灯の中に四大種子はなく、虚空にも四大種子はありません。光は如来蔵によって形成され、如来蔵から来るのです。万物は表面的には何かから生成されたように見えますが、実際には龍樹菩薩が中観論で説かれた通り:諸法は自ら生じず、他からも生じず、無因からも生じない。これは全て如来蔵から生じることを示しており、地上の菩薩の道種智によって実証される内容です。

例えば草木は表面的には草木の種子から生じたように見えますが、実際には草木の種子も如来蔵によって生じたものです。草木の種子には自体的存在性がなく、したがって他の法を再生することはできません。四大種子を持たないからです。草木は草木の種子から直接生じたのではなく、草木の種子を縁として如来蔵から生じたのです。種子が草木を生むのは表面的な仮の現象であり、実際には全て如来蔵が四大種子を用いて生み出したものです。ちょうど子供が表面的には両親から生まれたように見えても、実際には自分自身の如来蔵から生じたのと同じです。

また例えば机や椅子は表面的には木板から作られたように見えますが、実際には如来蔵の四大種子によって形成されたものです。木板自体も如来蔵の四大種子によって生成されたものであり、生じられたものには自体的性質がありませんから、他の法を生じることはできません。家屋も表面的には煉瓦や瓦、土の調和によって生成されたように見えますが、実際には如来蔵の四大種子によって形成され、如来蔵から生じたものです。家屋を構成する各種の材料も全て如来蔵の四大種子によって生成され、全て如来蔵性なのです。一切の法の形成は最終的にも根源的にも如来蔵に遡及しなければなりません。そうすれば一切の誤りがなく、世尊の説かれた「全ては如来蔵性である」という真理に符合し、真実の仏子となり、外道の種性とはならないのです。

この世界もあの世界も、どのような世界であれ、このものもあのものも、どのようなものであれ、全て如来蔵が直接に造り出したものです。ただしその功績の全てが如来蔵にあるわけではありません。意根も関与しています。もし意根である末那識の作意と思惟がなければ、如来蔵もどうすることもできず、どれほど能力があっても手段を講じることはできません。この第一の能変識と第二の能変識が和合して一切の万法を演じます。如来蔵は末那識の心の行いを知り、私心なく無我ですが、末那識は全ての功績を掻き集めて「我、我、我」と主張します。まるで盗人のように他人の財産を盗むかのようです。これには第三の能変識である意識も関与しています。意識は絶えず計画を練り、分析推論し、如何に自己に利益があるかを考え、その後意根に伝えて策を授けます。意根はこれを知り、思量を重ねた末に決定を下し、六識が実行に移します。最終的な結果は意根が享受するのです。如来蔵は輪の外に立ち、これら一切を見守りながら、自分とは無関係であるかのように、真に清浄な主翁として存在しています。

——生如法師の開示
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