なぜ禅定に入ると、識の種子の流れが次第に減少し、了別作用が弱まるのでしょうか。いったい誰が了別を決定しているのでしょうか。少なく了別し、了別しないことを決めるのは誰でしょうか。禅定において、なぜ意根は了別を少なくし、了別しないことを決定するのでしょうか。禅定に入っていない時、なぜ意根はこのような決定をしないのでしょうか。意根と禅定はどのような関係にあるのでしょうか。
もし禅定が六識だけを定め、意根を定めなければ、意根が八つの処に攀縁し、八つの処で強く了別しようとする場合、どのような結果が生じるでしょうか。意根が攀縁を減らし、攀縁しなくなって静まることを何と呼ぶのでしょうか。これはどのような現象でしょうか。
修定において、浅い定は五俱意識を修し、深い定は必ず独頭意識に至らなければなりません。修定の一般的な手順は、五俱意識を制伏することから始め、次第に独頭意識へと転換し、その後独頭意識を制伏するというものです。深甚な禅定はすべて独頭意識から修し始めます。経典中の各種観想法門は、すべて独頭意識を制伏するものです。修定の全過程において、最初から最後まで、意根が六識の生滅変化を主宰し牽引しています。時に最初は意識が意根を牽引し、思惟と言葉で意根を説得して妄りに攀縁しないようにさせることもありますが、最終的には実質的に意根が六識の有無と軽重を決定し、意根が六識の往来を牽引し、意根が六識を減弱させ滅却させるのです。
独頭意識は五俱意識よりもはるかに活発で、制伏し難いものです。一旦制伏すれば、禅定は容易になります。独頭意識を捉え牽引できるようになれば、入定と出定の道が開けます。捉えることも牽引することもすべて意根が行うため、意根には必ず欲心所が存在します。意根の欲を降伏させ、意根の欲を調動し、意根の欲を牽引すれば、禅定は容易になります。したがって修定とは、結局は意根を修め意根を降伏させ、意根を牽引することなのです。
修定の順序:まず五識を降伏させ、五識の一つだけを残す。これを専注と呼びます。次にその五識の一つも減弱させ、五俱意識の機能を強化します。その後、五俱意識の機能を独頭意識に転換し、五俱意識を減弱させながら独頭意識を強化します。さらに独頭意識を専注・専一・深入させます。
更に深い定に入れば、独頭意識を減弱させ、最終的に独頭意識を滅却させます。独頭意識が強すぎると、特に深い禅定において影響を及ぼします。例えば常に法義を思惟し、心中に念頭を絶やさず、念頭を断つことができず、念頭を転換し続ける状態では、深い禅定を保つのは困難です。
修定の原理から見れば、意根は必ず定心所と相応します。定とは意根を定めることであり、六識を定めても無意味で、六識を定着させることもできません。子供は必然的に母親に従うように、母親を定めれば同時に子供も定まります。物事の表面現象を見るのではなく、必ずその本質と究竟の処まで深く入らなければなりません。意根の働きを観察できず、深層の本質を観察できないならば、事象の表面に留まり、仮の相を観察するだけに終わってしまうのです。
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