福徳もまた共業によって感ずるものである
転輪聖王が黄金の雨を降らせようと念じる時、その貪りの心はますます大きくなり、小さな貪りでは満足しなくなります。もしその貪りの念が現実となったならば、それは何を意味するでしょうか。彼の福徳が具足していたからこそ、このような貪りの念が実現したことを示しています。もし人が天から黄金が降ることを念じ、実際に黄金が降ったならば、それはいかなる状況下において可能か。それは天下の人々すべてがこのような大いなる福徳を備えている時に限られるのです。念じる者だけでなく、関係するすべての人々が福徳を具え享受する必要があります。共に享受する人々に福徳がなければ、黄金の雨は降り注がず、仮に降ったとしても福徳なき者は得ることができません。福徳の業種がなければ福徳の花果は現れず、衆生の福徳具足が前提条件なのです。転輪聖王が治世する時代、その民衆は皆大きな福報を持ち、運命にその福を宿していたからこそ、天下に黄金の雨を感得できたのです。
これは転輪聖王と四天下の人々の共業が感得したものであり、共業とは同じ福徳を共に積んだからこそ、共に果報を享受できることを意味します。例えば夫婦には共業があり、共業がなければ一緒に暮らせません。夫婦は同じ善業あるいは悪業を持ち、共に富貴または貧困を感得します。一方が富貴で他方が貧困という場合は存在せず、そうであれば結ばれないのです。もし夫婦の共業が消滅し、一方が富貴の果報を受け、他方が貧困の果報を受けるならば、二人は共に生活できなくなります。
親子にも共業があります。もし親が貧困の果報を受け、子が富貴の果報を受けるならば、子が成長して家を出た後、別の地で富貴を得ても親は享受できず、これは共業がないことを示します。衆生が共に住む地球上の人類は皆共業を持ち、小さな都市に住む者たちもまた共業を有します。ですから我々が富貴の果報を得ようとするなら、求めずとも布施と福徳の修行を実践すればよいのです。修めた者が得、修めざる者は得ず。善業には際限がなく、この富貴の業を私が修めればあなたが得られないというものではありません。修めた者すべてが得るのです。
よって共業は衆生を一処に集わせ、不共業は衆生を分離させます。極楽国土の衆生の共業は天衣天食を自然に現出させ、七宝が遍く黄金で地を覆います。これが極楽国土の衆生の共業であり、地球人は黄金を宝として身に付けます。地球人の福報が尽きかけた時、地上で最良の物は鉄となり、人々は錆びた鉄片さえ宝物として身に付けるでしょう。衆生に福徳がなくなれば、無福の共業が悪しき物を感得し、宝物は存在しなくなるのです。
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