仏法を学んでいない者は、人に対して何かをする際に目的性を持っている。仏法を学ぶ者でも、心が無為に至っていない段階では、人に対して行動する際には大抵目的性を有している。この目的性は、どの心が具えているものか。衆生が行動を起こすのは欲望に駆り立てられるためで、心中に目的性を抱いており、無欲無求で縁に随って自然に振る舞う者は鳳毛麟角である。
事を為す前の目的性や欲望は、全て意根に属する。時に意根の欲望目的性は、意識の唆しや教導によって生じることもある。意根に欲望があるからこそ、六識を駆使して自らの欲望に従って身口意の行いをなす。六識が活動する過程においても、それぞれ独自の欲望を有し、再び意根に影響を与えて変化させ、意根が本来の欲望を滅却させたり、新たな欲望を生じさせたりする。
広大な心量を持つ菩薩でない限り、あるいは心の一部または全てが無為である菩薩でない者が、自らの行動が完全に無欲無求であると主張するなら、それを信じない方がよい。その人物が接触を求めてくる時、既に何らかの求め、目的性を有しているのは必定である。ただその目的が正か邪か、善か悪かの違いに過ぎない。
もし意根に目的がなければ、それは休息し、何も行わない。仏陀の意根にも目的性があり、それは衆生が解脱を得るためである。仏陀が娑婆世界に来られたのも目的性を帯びてのこと、そうでなければ仏は何をしに来られたのか。目的を有しながら自覚せず、発見できず、あるいは故意に発見しようとしない者もいる。意識心が微細でなければ、意根の秘められた欲望や目的を知ることができない。
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