仏となるにはどのような条件が必要か。
転輪聖王は無量の仏を供養し、数多の善根を積み重ねて初めてその位に就くことができました。もし我々が修行を怠り、ただ一句の念仏を唱えて命終すれば極楽浄土に往生し、そこで仏となるのを待つだけで、果たして成仏できるでしょうか。我々は釈迦仏を供養したのみで、十分に供養もできていないのに、極楽浄土で阿弥陀仏一尊に出遇うだけで成仏できるのでしょうか。転輪聖王となるにさえ無量の仏を供養する必要があるのに、まして仏道を成就するというより勝れた果報を得るにはなおさらです。経典には「衆生が仏となるには皆、無量無辺の諸仏を供養し、各仏の御許で経法を聴聞し、世々諸仏を供養して初めて福徳が具足し、福慧両足尊たる世尊となる」と説かれています。故に、ただ念仏を唱えて極楽に往生すれば即座に成仏できるなどということはあり得ません。衆生を救済する経験も不十分で、仏法も学ばず、福報も修めていない者が、容易に仏となることは不可能なのです。
もしこのように容易に成仏できるならば、念仏して仏となった者が弟子に説法する際、小乗の教えすら説けず、大乗の教えも語れないなら、どうして衆生を救済できましょうか。そもそもその弟子たちはどこから現れるのでしょう。自ら弟子を教化したこともなく、衆生と縁を結んだこともない者が、どうして弟子を得られましょう。衆生を救わなければ弟子はおらず、弟子の協力がなければ仏国土を建立することも、成仏することも叶いません。譬えば国王となるにしても、家臣も民衆もいなければ王たり得ないのと同じです。ただ極楽浄土に往生しただけで、衆生を救ったこともなく、福報も不十分で、経典を説く智慧も備わらず、福徳と智慧の両方が具わらなければ、成仏はできないのです。
成仏の際には無量無辺の弟子が弘法を補佐します。まず左右に等覚菩薩が侍り、初地から九地までの菩薩、悟りを開いたばかりの菩薩、凡夫菩薩、声聞縁覚など、無量の弟子が存在して初めて仏国土を建立できます。故に仏となるには無量の諸仏を供養し、常に諸仏に随って教法を学び、自らの福徳を速やかに円満具足させねばなりません。
成仏前に学ぶべき仏法は膨大で、一尊の仏のもとで全てを学び尽くすことはできません。南贍部洲に伝わる三蔵十二部経は、仏が説かれた法のほんの一部に過ぎず、娑婆世界で説かれた法は爪先の土ほど、未説の法は大地の土ほどあると譬えられます。それでも南贍部洲の経典は衆生にとって大海の如く広大で、多くの者がその十分の一、二十分の一を読むことすら困難です。ましてや仏が説かれなかった無量の法が存在するのです。仏法は真に広大無辺ですから、我々は無量の諸仏を供養し、常に諸仏に随学し、福徳を修め続けて、最終的に仏道を成就せねばなりません。
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